しゃっくりの質感が子供の頃とはどこか違ってきたように感じた。それは日常の理性では認知不能な咽喉部の変化がもたらしたものであろうか。身体に鋭く刻み込まれるしゃっくり。ちょっと行き急いだ感じでビールなどをごくごく飲もうとすると、その液体が食道内部で圧迫され気泡ができあがり、つっかえたまま分解されずに胃に押し流され、身体に失調をもたらす。(という説明のしかたが自然に思える)。放屁や咳ごみは内因性の失調なのだろうが、しゃっくりはそれを遂行している際の身体状態から察知するに内因性とも外因性とも判断がつかない曖昧なもの、境界の産物だ。(しかししゃっくりそれ自体は「もの」ともいえないし、それを「しゃっくり」と名指されるに値するだけの行為のコードを表出しているXなのかもしれない)。そしてしゃっくりが複数回にわたってなされると、いつなんどきにしゃっくりが出てくるのかが予測できないし、しゃっくりがいったいどこでどういうふうに終わったのかすら判然としない。しゃっくりは予測不可能である。しゃっくりを予測できる機械はこの世に存在しないし、しゃっくりのしゃっくり性はi-podシャッフルどころではない真の偶然に満ちあふれている。自身のしゃっくりをコントロールできないほどに人間はまだまだなのだ。





話はかわるが「変」と「変てこ」と「変てこりん」は違う。しかし意味するところはどれも「変」であり、文法秩序において規定できる。(「Aは変である」言明と「Aは変てこりんである」言明は意味論的には同じである)「変」に「てこ」や「てこりん」を付け加え、堂々とできるほどに人間(日本語人?)は過剰な生き物なのか。たぶん、きっとそうなのだろう。