パリで五年間、羊皮紙などを使った少部数限定本の装丁の勉強をしていたという国会図書館の同僚が個展を開いているので足を運んだ。白金高輪にあるその会場、啓裕堂ギャラリーは古書店の一角に展示スペースを設けたところで、京都の御幸町御池を下がったマンションの一室にあるアスタルテ書房を連想させた。(いかにも「シブザワスノッブ」が集まりそうな場所だ)。さて、「悪の華」と題された展示作品。それらはボードレールではなく、バタイユ(筆名はピエール・アンジェリック)の『マダム・エドワルダ』のいくつかのシークエンスを彼女なりのイマジネーションから像に起こしたものであり、極細のロットリングによって描かれた繊細極まる猥褻画、ハンス・ベルメールボンレスハム(裸体人形)を自在にこねくりまわし、平面化したような図像、ほとんどフリーハンドで描かれた見事な曲線の群れは宮西計三の劇画を連想させもした。






そもそも「ノヴェル」とは「絵入り小説」のことだったのだが、物語の随所のシーンを任意に選択し、言語のコンテクストから引き剥がし像(絵画)に起こすという発想自体は今だからこそ、とても面白いものだと感じた。しかし、しいて難癖つけるなら、その絵があまりにも、まだまだ意味をひきよせすぎだということだろう。(ランダムな曲線の群れの中に突然あらわれる女性器を中心に据えた絵を見て思ったのだが)セックスにおける恍惚はその行為自体において恍惚を帯びるのであり、原理的に恍惚を表象ー再現できるわけではない。しかしそれをあっけらかんとやってのけてしまえる(やった気になってしまえる)のが「女性性」(いやな言葉だ)のもっともたるエッセンスといえばエッセンスなのだろうし、私はそれを全面否定するものではない。そして、フロイトならば「死の欲動」と呼んだであろう性の恍惚の極点へと向かうべき主体は同時にキルケゴールの言う「死に至る病」、いっさいの他者性を欠いた主体の死に他ならないだろう。そういうことを、つまり「死の形而上学」を彷彿とさせるほどに「意味」がありすぎたのである。






「繊細さ」の表出とは極度のエネルギー/アブソープションを要するものだ、だからこそ忘却してしまうし画面から失われるものもあるのだろう。諸々のイデオロギーが仕掛けてくる「意味」へと陥落してしまう悪循環回路を断ち切るべきである。ニキ・ド・サンファールや草間弥生がほとんどその次元で「男性の幻想としての女性性」を無化したように。







(余談になるが、ミシェル・シュリヤによる『バタイユ伝』によると、彼はパリの国立図書館で司書をしながら悶々と著述に耽っていたとはいえ、幼少期に、車椅子生活の重度の身体障害の祖父と暮らし、近代中国における残酷な拷問や惨たらしい死刑囚の写真に驚愕していた、つまり圧倒的なリアリティーの泥沼の住人だったのだ。バタイユの著作活動も、そのような原体験とは切り離せないだろうし、「シブザワ村」や「イクタ村」の有象無象はそんなバタイユの本義(ほとんど「仁義」といってもいいだろう)とは無関係かつ無関心な場所に生息しているのではないか。やはり「REAL」とは村の内部ではなく、いかんともしがたい圧倒的かつ絶望的、かつ至上の「外」にあるのだ。)