美術ノート20



■ ドイツ版画展  宇フォーラム美術館




神話化された伝説的アイドル山口百恵(三浦夫妻、家族)が住んでいる、ということでしか知らなかった、国立(クニタチ)という土地にはじめて足を踏み入れた。「学園都市構想」(1926)という大規模なプランのうえで造成されたJRの駅南口からまっすぐにのびる大学通り甲州街道(国道20号線)沿いの谷保神社までつづくこのうえなく洒落た目抜き通りではあるが、(両サイドにヨーロッパ風の邸宅が並んでいて、ここはプリンスホテル、つまり<もと>皇室の土地らしい)一橋大学のキャンパスが隣接しているということもあって、アート色にくわえてアカデミー色をもふんだんに感じさせる土地である。今回足を運んだ「ドイツ版画展」(第1回国立ビエンナーレの関連展示)は、そんな大学通りから脇道それたところ、ミニマムにしてシンプルな住宅街の一画にある「宇フォーラム美術館」において開催されている。





以下、表層的なアナロジー以上のものではないが、43点のなかからピックアップしてランダムに感想を述べておきたい(残念ながら作品名はすべて不明)。まずは、ヘルベルト・グリュンバルト。日本の歌舞伎絵がフランス印象派にあたえたインパクトの流れ、という系譜のもとで見るのがいいのか、または本場のヨーロッパロココ芸術の系譜のもとで見るのがいいのか、とにもかくにも、その緻密さを実現する銅版画は、北斎が好んで描く<はっきりした濃淡>を取り入れたものであり、また、オーブリー・ビアズリーの曲線を強調した絵画やプリントにも似ているところがあった。




そしてグリュンバルトとの相似形を誇っているのが、ホルストヤンセンだ。ヤンセンもまたどちらかといえば、病的なまでの細密曲線を克明にプリントするのを好むが、モティーフとしては「廃人」「鳥の死骸」「植物の腐敗」など、<死の暗喩>に満ち満ちていることもあって、宮西計三のマンガ絵(ということはタッチにおいては丸尾末広石井隆以上の繊細さがあるということだ)をも想起させた。ティム・ウーリッヒ。純粋な幾何学模様を見事なまでの正確さで版画化したものであり、同心円的(つまりシンボライズされやすい潜在性をもつ)な構図はやや好みではなかったが、オートマティスムを感じさせるその厳密な模様展開はすばらしいものだった。ヴォルフガング・ヴェルクマイスターの作品は具象よりのもので、ドイツの路地の一画を静謐なモノクローム/ダークトーンで収めたヴェンダース監督の『さすらい』の冒頭シーンにも似た「風景への忠誠」を感じた。ゴッドハルト・グラウブナーの版画は、その見た目だけを問題にすればマーク・ロスコシーグラム絵画にも似た曖昧模糊な輪郭を採用しているが、これをして「版画」と言うにはとうてい無理そうな「ぼやけ/ぼけ」を採用していたので、そういう意味で興味ぶかい作品であった。シグアール・ボルケの計4点は「手のひら」を素材にしたものだが、ウォーホールシルクスクリーンを想起させるものだった。次にヨーゼフ・ボイス。ボイスの作品はむろん、インスタレーションの作品が有名といえば有名なのだが、小ぶりなサイズの版画、メモ書きやイラストといったより日常的感性に近いモティーフを簡潔な「黒字に白抜き」で表出したものだった。





そしてギュンター・ウェッカー。ウェッカーのものは計9点あったが、ラストを飾るトリプティーク(三点セットのもの)が素晴らしかった。センターに雨雲に似た群線のカオスを配置し、その下に砂利のカオスのような敷物的な模様が配置されている。そのわき(センターに対する左右)には伸びたタケノコを黒塗りしたものに(写真技法のメタファを借りれば)「アレ・ブレ・ボケ」で再加工したようなシンプルにして力強いものが配置される。白地にプリントされた、たった黒の単色だけでもこれだけの表現ができるのだ、という初歩的な教えを再確認した次第である。あと、エルンスト・ミッカ、トーマス・ジェンク、アントン・スタンコウスキなどの版画もすばらしいものだった。




1921年のパリ、キュビストのレジェとの「交遊/共働」の時間のなかで絵画修行を積んだ画家、坂田一男の記念館としても知られる宇フォーラム美術館であるが、その弟子筋でもある平松輝子さん(当美術館の設立者)の話をロビーでお茶をいただきながら現在の館長さん(?)に聞けたのも喜ばしい偶景だった。(そしてそのロビーには美術関係者にかこまれた来日中のウィレム・デ・クーニングがアメリカ文化センター(現在はもうない)でのパーティーに訪れたときの写真がさりげなく飾ってあった。)




クニタチの簡素にして美的な環境の中、大きな美術館では得られないだろうアットホームな充実感を得られる、そんな小ぶりな会場での展示。とてもすばらしい美術体験だった。会期は5月9日まで。(4月28日)