■1〜20



■1

ある人にある事を頼み、打ち合わせをした直後、ある人から「私、俳句書いているんですっ!」といきなり言われ、彼女は超軽量ノートブックPCを開けた。トゥイッターに溜め込んであるその句集タイトルは「よもやまナントカ」。・・・部屋に帰ると水浸し、おやおや冷棟庫の扉が開けっ放しだった。そして水を吸った畳の中から・・・と、そんな描写だった。その俳句が、いいのか悪いのか分らないけど、見せるのはいいことだ。やることもいいことだ。やれ!やりまくれ!(9月中旬)


■2 

南千住で撮影。北千住住まいのある人に(移動撮影に使う)チャリンコを借りるために出て来てもらってのことだった。そのチャリンコは小渕首相時代にバラまかれた地域活性化のための給付金2万円で購入したもので、10年以上使っている年季が入ったものだった。物持ちのいい人には将来性を感じる。(9月中旬)


■3

地元の人でさえ、あまり知らないことだけど、南千住の旧名は小塚原(コヅカハラ)であり、この一帯は東京最大の処刑場だった。近くには泪橋の交差点があり、山谷がある。しかし、山谷(サンヤ)という地名もいつからか(たぶん90年代に入ってから)地図上からは消え去り、今は清川(キヨカワ)になっている。泪橋は処刑される人がその家族と離別する場所になっていた、と、メトロの南千住駅近くにある古書店金井美恵子に似たおばちゃんが教えてくれた。(9月中旬)



■4

中平卓馬の写真集『来るべき言葉のために』の旧版(1970)が12万で店頭に出ていた(渋谷 FLYNG BOOKS)。さすがに手も足もヘソも出ないので断腸の思いで6400円の金をはたいてLOGOSで『都市 風景 図鑑』を購入。感きわまって、書きたいことがたくさんあるが、書き途中で挫折。しかしこの箸にも棒にもかからない写真集から突然変異的な刺激を受けて台風、暴風、河川増水期に各所に撮影しに出かけた。中平が写真を撮るきっかけとなった先輩格である東松照明の『camp OKINAWA』も見なおしたが、中平の写真とは決定的にちがう。ベタな言い方だが、中平は徹底した「人間嫌い」なのではなないか。(ただし、子供と浮浪者を覗く)。成人男女を偶然視界に入ったホコリくらいの程度にしか扱っていない、とは言い過ぎだが、人間撮影に対する干渉がない。もちろん感傷も。(最下部の写真参照)(8月中旬〜9月末)


■5

岡村靖幸を聞きなおすきかっけはなんだったか。そうだ、偶然ラジオでかかったのだ。渋谷AXでの復活ライブ、その感想。絶賛しまくっているラジオの声。ああ、そうだ。その前にテレビガイド的な雑誌でいとうせいこう岡村靖幸が対談していたのを立ち読みしたのだった。『禁じられた生きがい』。2、3曲目のリズムが面白い。素人耳で聞いても、とてもうまい。何がうまいのか、それは聞いてほしい。岡村靖幸は年くったら谷崎の『瘋癲老人日記』みたいな曲を書くのだろうか。(9月中旬)


■6

5月に京都帰省した折に古道具屋で余裕の50円で買った「敗戦通知音声」・・いわゆる玉音放送ソノシート(レコードではない!)を聞き直す。フルコーラスで入っているのでとても長い。僕はこれが、どこで、どのように録音されたのかがすごく気になっている。散歩中の白昼夢なのか、きっと「(現)国立近代美術館工芸館」(九段下の北の丸公園の敷地)の内部だということになっている。これがなぜだかわからない。(9月初旬)


■7

夏前に敷き布団の存在価値を見失った。ので、捨ててしまった。座布団は好きで部屋に3枚ある。座布団をモデュロールとして扱い、ある時はそれらを組み合わせてカーテンになったり、ある時は敷き布団になったり、カーペットになったり、ある時は「笑点」の座布団のようになってもいいんだが、そういうことをしたいとも思う。パンパカパカパカッ、なんて。(8月)

■8

冷蔵庫の扉を指先でピッと触るとサァーと扉が一気に透明になり、中に入っているものがすべて分る。という冷蔵庫はまだ開発されていないらしい。(8月初旬)


■9

鹿島田真希『来れ野球部』を途中まで読む。
柄谷行人『哲学の起源』を途中まで読む。(8〜9月)

■10

アントニオ・カルロス・ジョビンは子供の頃、愛犬を猟銃で誤って撃ってしまい、後年、成人してから、そのトラウマに苛まされ七年間精神分析にかかった。」とラジオのパーソナリティはいっていた。数分後、「三月の水」がオンエアされる。これはジョアン・ジルベルトもカバーしていた。まあ、いろんなミュージシャンがカバーしているんだが。(10月初旬)


■11

また作曲し始める。20年代のドイツ、デンマーク映画のセリフからの引用。フラグメンテーション(切片化)、スリット(間隙)、変拍子。同時多発和音。アンフォルマティック・コラージュ。速度、ギャグ、ポリティカル・ノイズ。6月頃、20センチ×30センチくらいの仏像制作中のサウンドを録音したものがあり、それを一気に被せる。18分44秒の曲ができた。仏像は未完成だが、まったく仏の様相を呈していないので、なんの物体だかわからない。なんだこりゃ。祈るぞ。(9月下旬)


■12

6月に上映で京都に帰省した折、ハシゴ飲みの途中で10年ぶりでばったり会ったエレキ野郎にもらった小冊子『地獄の季節 第七篇「朝」の聖書的主題』(年報フランス研究 第44号抜刷 2010年12月25日発行)が、紙の山から出てくる。聖書のパロディとしての『地獄の季節』、ということはキリストのパロディストとしてのランボー。しぶとい探究欲と細かい研究。希望。絶望。そして希望。(9月初旬)


■13

終電車の中でトランクスの尻の部分が破けていることに気づき、爆笑。それをある女に告げたら「私、縫ってあげるゥ〜〜、紫の糸で。」と言われ、さらに爆笑。直後ウルトラエレガントなパンツを求めにいったが、ショッキンググリーンのものが気に入って、即効、駅のトイレで着替えて履く。その後アポロチョコをドカ食いして気分が悪くなる。(9月中旬)


■14

真面目で愉快な勉強会、イマゴン・スタディーズの次回分の計画を立てる。「これは僕のライフワークです。」「意気込んでます。」「超少人数性ですが、あと2人くらい参加者を募集してます。」(9月下旬)


■15

現代映画理論誌の発刊準備を進めているがなかなかはかどらない。21世紀の映画理論の序章となる長大論文を仕上げたが、小出しにしていくことにする。年末あたりから都内/京都の某所でフリーペーパー形態で配布します。部数僅少。いちおうの告知はします。必読にして必生。腕力ではなく知力。夢から現実へ。今日から明日へ。(8月)


■16

次回上映決定!!といいたいところだが、諸般の事情でまだ企画書提出できていない。しかもyou tubeでの予告編アップロードで検閲(チェック)をくらって音が消えた状態。 you tube、意外に厳しいやん。あ〜また長編撮りたい。ムズムズする。(9月下旬)


■17

先日川崎市にオープンした藤子・F・不二男ミュージアムについての話題から、ある人に「そうそう、こないだ、コロコロコミック9月号買って読んでたら、そのことが載ってて・・・」と告げたら「あ、そうそう、私もこないだ、小学一年生9月号を買って、なぜかと言うと、付録についていたポケモンの時計が超可愛くて・・・」と返ってきて、とても驚いて、貸し借りをすることにした。今、27歳の女性から借りたその「小学一年生」が手元にある。子供の世界を覗く。想像以上に面白い。
(10月初旬)


■18

ルソーの『エミール』(1761)がとても面白い。ルソーの本はどれもこれも面白く、10代に読んだ『孤独な散歩者の夢想』もとても面白かったし、20代に読んだ『社会契約論』『告白』、どれもこれも面白かった。自作の『ネッカチーフ』というとんでもなく、ハチャメチャな映画もルソーの『ジュリ、あるいは新エロイーズ』が下敷きになっていると言えば、なっている。あとは「白水社文庫クセジュ」から出ている『オナニズムの歴史』(金塚貞文訳)にもルソーに関する言及があり、当時の妻とワインを飲んでハイになって爆笑しながら書いたその映画の脚本にはルソーの影がこれでもかと落ちているのだ。超ハイスピードで撮ったその長編映画は、今でもたまに見る。見るたびに、「やはりオレは新しいことをやるのだ」と思う。ひきずっているのか。(10月初旬)


■19

ルソーの『エミール』。この書には子供のエミールが成人になってソフィーという女性と出会い、結婚に至るまでの過程が面白おかしく、かつ自然主義的に描かれている(というか、ルソーが自然主義の大家だとも言っていいんだけど)。そこで親(主に母親)はどのようにして子供と向き合えばいいかをも詳述してある。ひとくくりにしていえば「子供をいかにして育てるか」という「教育論」であるが、一方で「女(少女)は何を考えているか、どういう生き物であるか」あるいは「女(少女)一般に男(少年)一般はどう向き合えばいいか」という問いと対処法をも書かれている。その取り組みはフローベールの『感情教育』に通底するところもある。しかし、教育論から離れて、(今でいう)ジェンダー科学/社会学の枠組みにおいて掘り下げている「恋愛指南書」としても読めるのだ。ここには例えば、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』に書かれている抽象的なエッセイよりもはるかにプラクティカルなことが書かれている。『エミール』を読んでいた流れもあって、「コロコロコミック」を読むことになったのだが、ずいぶんと視野が開けた。後日「マンガノート」にて探究したく思う。(10月初旬)



■20

中平卓馬の写真集について書いたテキスト、途中放棄した分と彼の写真の何点かを以下に掲載しておきます。

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■  中平卓馬 『都市 風景 図鑑』




衝撃的である。指で一枚一枚ページを繰りながら目に飛び込んで来るままに写真に圧倒されつづけていると、中平卓馬の「精神の監獄」とでもいうべき来歴にズタズタにされながらついに放心状態に陥る。写真家の 「passion 痛苦=受苦」としての檻の中に自らを放置させることが、戦慄的な不安を誘き寄せる。・・・ここにおいてはあたたかな人間世界がもたらすだろうおだやかな世界の肯定、肯定的生活の全ての営みは徹底的に全面否定されている。



写真・・・果たして何が写っているのか?ぼんやりとした光、荒んだ都市のコンクリート、染み渡る血痕、終電車で頭を抱える酔っぱらい。どれもこれもが、写真それ自体が絶叫しているように見える。血の通いすぎた、血管の破裂しそうな中平卓馬の身体と創痕の震えが反映されているばかりなのだ。・・・横浜、東京、京都、川崎、奄美・・・人間ではない、人間の妖気、その痕跡だけがかろうじてフレーム内に残されている。消えかかる煙草の煙のような、蒸発真近の水滴のような。・・・最初に開始されるのは「白い病棟」とタイトルを付されたページだ。写真家の「戦線布告」とでもいうべき戦慄すべきページ。オーヴァーエクスポーズ、露出過多のこの写真がまた異様中の異様である。この場所は「国立下総療養所」と呼ばれ、精神病患者を収容する病院の室内や窓から外を覗く患者がフィルムに刻まれている。ページ下部には『分裂病少女の手記』からのテキストが再録されている。つづけて、「J・バエズひとり」。ベトナム戦争時の反戦フォークシンガーなのか、この女性の顔(表情)がまた尋常ではない。ジェスチュアをまじえて何かを懸命に語っている。どんな歌を歌っていたのだろう。J・バエズ。



『都市 風景 図鑑』は中平卓馬のマガジンワーク(雑誌掲載分)を集成したものであり、重さ1、5キロあるこの写真集のプロローグを飾るこの二つのチャプターを見るだけで、時代の、いや、彼が時代と向き合った異様なテンションが確認される。60年代後半から70年代半ば。しかし、よく見て見よう。どこが植物図鑑なのか、博物図鑑なのか。この写真の表面にいわゆる「図鑑」の表象を転写してはいけない。より厳密な意味でここには都市も風景も図鑑も写されてはいないし、写真家が果敢に試みるのは「時代を写す」などという安易なポエットに回収されるような同時代的なアトモスフィアを破棄することなのだ。中平卓馬の言う図鑑とは、いわゆる「図鑑」を過激に抽象化したものなのである。



もう少し突っ込んで考えてみよう。彼の写真群は事実、何が写っているのか判然としないものが多い。通過する光の残響であったり、コンクリートに染み付いた液体(車から漏れたオイルか、それとも血流か)の乾きであったり、「そのようなものとして」かろうじて指示できるのだが、より強く感じられるのは「写真家が写真を撮る」という自明の理を全面否定する方向へと写真家自身が過剰にひきずられながら、なにかを「代理=表象」してしまうことへの写真のメカニック=機構を呪わしいばかりに、自らの臓腑を自らの手で引きちぎるように圧殺させようとする態度が伺われるのだ。



▼「と、まあここまで書いて、いやんなったな。あとはソフトな会話形式で。」
●「うーん、わからんでもないな。中平卓馬の写真って見てて、すごくドキドキするし、心臓が圧迫されそうになる。絶句させるような強制力があるっていうのかな。」
▼「彼の写真をたんに見ることはできても、中平卓馬のことを真摯に語るとなると、そりゃあ、キツいよ。彼の写真はすべて絶叫している。耳を聾するばかりの音響で。」
●「それでも、彼の書いたものと照らし合わせて見ている限り、語るべきことはちゃんと語っておいた方がいいなじゃないかしら。君も『なぜ、植物図鑑か』を以前礼賛していたじゃない。」

▼「まあ、しかし、当時はまともに見れてなかったんじゃないかな。横浜美術館でやっていた「原点回帰」も見逃して、最初に『カメラになった男』っていう写真やっている人が撮ったドキュメンタリーを下北沢で見たんだけど、彼の奥さんも出て来てたし、ホワホワした感じ、とくに浮浪者が昼間から公園で寝ているところを猫のように近づいてカメラに収めていたシーンなんか、それなりにフツーに見れたんだけど。しかし彼が急性アルコール中毒で昏倒する前になるのかな、その時期の写真をこれだけのヴォリュームのある写真集で見るのは、そうとうエネルギーがいる。これ重さが1、5キロあるんだけど。」

●「黙示録的な感じなのかな。現代写真界で流通しているような安穏とした感じ、やっぱ写真は「都心部」でもなく「田舎」でもなく「郊外」だよな、とか、まだまだゴスロリだよな、蜷川美花ってAKBの衣裳もやってんだよね〜、とかそんな温和な感じがまったくしないよね。」
▼「黙示録的、って言ってもまったく宗教的ではないし、むしろ彼は即物主義を押し通しているんだけど、それを突き進めていった地平に開闢するオーラ、いや、オーラなんて言うのは馬鹿げてるな・・・なんて言えばいいのか」
●「見る者を徹底的に突き放すものだけが、見る者を徹底的に魅了させることができるってこと?」
▼「そういうと物神主義(フェティシズム)になっちゃわない?」
●「そこはスレスレなんだな。」
▼「そうかね。物心でもない、物霊とでもいうか。」
●「路上にできた染みとか車から漏れたオイルとか、これはいわば物の痕跡であり、痕跡に留まるべき対象なんだろうけど、バーンとこちらに迫ってくるものがある。都市、といった場合、森山大道は上を見て歩いていて、電線の束なんかが特徴的なんだけど、中平卓馬は斜め下、車のボディの影とか、路上、そして地下鉄なんかが特徴的。しかし都市そのものを撮っているっていうよりも都市を包囲する何かなんだよね。」
▼「しかし、希薄な移ろいを撮っているにもかかわらず、そこには猛り狂わんばかりの勢いが充填されていて、こう言ってよければ、本居宣長の規定した<物のあはれ>の真逆をいっている。憐(哀)れみを付与された<物>の大いなる反逆というか、復活というか、そういう視点を固持したのって彼くらいじゃないか?」
●「それはアングルのとり方もおおいに関係があって、解説文に書かれているけど重心の取り方、四角いフレームの中でどうやってどこに重力をかけてゆくかという技術論的(とくにティルティング)な問題設定を感性的に処理していたと思うな。それで、痕跡から何かを予兆する、未来を占うっていうことはないにしても、常に書き換えられる都市の現実に敏感だったんだと思うよ。<現実はすぐに逃げてしまう>というオブセッション、これは写真、映画問わず撮影者の病理として常に身体的につきまとうシンプトム(兆候)であって、そういうオブセッションを抱えつづけることによって不確かなものを確かなものに変えてしまう傾向が出てくる。それで、誰もが気にしないし、目にも留めないだろう路上の染みなんかに極めてまっとうに関心を持ち続けることができる。」
▼「変なメタファーだけど、ある人が毎日自分の顔を鏡で見ているがゆえに、顔を顔として全体的に見れるのに、ある日、占い師が人相占いでホクロの位置とかでその人の未来を占ったとたんに一瞬全体性が瓦解するっていうことと似てないか?ゆえにそのホクロやホクロの位置に敏感になってしまう。顔=現実界とホクロ=想像界が逆転してしまう。」
●「書き換えられる現実と書き換える痕跡が一致してしまうということは、一瞬現実が揺らぐ、安定した時空間にクラック(ひび割れ)をもたらすことと等価であると言えるんじゃないかしら。メタフォリカルにいうと、シャッターを切ること(写すこと)と、一方でシャッターに切られること(写されること)の間にできあがる一致と不一致(をもたらす間隙)こそが、現実と非現実の差異を分つ最初の地点になると言えるのかな?占いも<未来の時間を遅延させることが前提されているけど、写真もそれが複製写真である限り、時間を生む。・・・話ズレるけど、たとえば、デート中のカップルがいるとして、女の方がおろしたての白いシャツを着てるとするでしょ?」
▼「ん?」
●「男の方が腹減ったからカレーうどんを食べに行こうっていうわけよね。」
▼「うん。」
●「女にとっちゃあ、カレーうどんを食べに行くなんてことは許されないわけよ。」
▼「どうして?」
●「決まってるじゃない。シャツが汚れるからよ。」
▼「ふ〜ん。」
●「痕跡の話にもどるけど、シャツが汚れる確率っていうのは、カレーうどんを食べるという仕草、身体動作がもたらすものなの。それはオムライスやハンバーグとは比にならないわけよね。」
▼「その場合は身体動作のうまい下手は括弧に入れているわけだよね。」
●「痕跡、染みがシャツに付く確率が高いからなのよ。しかもカレーの汚れは落ちにくいのよ!」
▼「なるほど。」
●「私が言いたいのは、それで男がフラれた場合、すでに染みはついた、染みはどこかにあった、おそらくは女の頭の中にあったってことなのよ。」
▼「カレーうどんごときでフルかね。」
●「そういうデリカシーのない男が嫌いな女ってのもいるわけよ。」
▼「中平卓馬の話と関係あんの?これ。」
●「そう、ここからが重要なんだけど、路上の染みっていうのはそれ自体アノニマス、匿名性の表現なわけ、その起源を欠いた(誰がその染みをつけたのか、まったくもって不明な)匿名性をいかにして獲得するか、奪還するかが彼の問いであったとしたなら、一方のカレーうどんの染みは人称性及び固有性に還元されるわけよ。」
▼「あたりまえじゃない。急いで食べるからだよ。」
●「だけど、考えてもごらんなさい。路上の染みが人称性を帯びる場合を。」
▼「どういうことかね?」
●「犯行現場なんかで警察や科学捜査班がやっていることだけど、路上にABCDEとかポイントをマーキングしていく△の物体を置くわよね。で、その現場ににおいて警察がまず捜査の対象とするのは、それが殺人であれ、ひき逃げ事故であれ、犯行がおきた時間と場所を特定することでしょう?それで<事件=出来事>の固有性を浮き彫りにしていくことでしょう?」
▼「ふんふん。」
●「そこで<1つの染み>が路上にあり、それが事件と関係あると確定された場合、<1つの染み>は一気にアノニマスな次元を離れると思うのよ。それは固有の事件が必ず時間と場所を伴っている限り、逃れようのないことで・・・そう、<1つの染み>が<諸関係の束>として表象になるの。起源を欠いた表象であるがゆえに起源が要請されるってこと。染みに所有格があらわれ、人称性が要求される。」

▼「ウジューヌ・アジェの写真が犯行現場的であるって、これはベンヤミンを始め、評論家が良く言っていることだけど、中平卓馬の路上の撮り方も決定的なことが起こった、<今、まさに、ここで何かが起こった>っていうどこか不穏な雰囲気があって、なおかつアモラルな感じがする。だけどアジェが警察側からの撮り方だとしたら、中平は犯罪者の側から、自分が犯罪を犯す側から撮っている感じがするよなあ。」


●「アジェの時代はカメラが大きくて重いからすべて固定で撮られていて、なおかつ露出時間が長かったわけだから、自ずとああいうスタティックな感じになっちゃうよ。」


▼「まあ、そりゃそうだけどな。僕は<犯行現場的>っていうことが言いたかっただけで。しかし<カレーうどんの染みがシャツに付いた>という先取りされた仮想現実によって、まさに現実が書き換えられるということは、男がカレーうどんを食べに行こうと誘ってフラれた、まさにその後においてしか確認できないことだよ。固有の染み、変換不可能でなおかつ唯一性を誇る染みの存在論的仮想現実とは、女が考えた、というよりも、女にとっての(フロイトの言う)<es>見たいなものじゃないかな。<es>が作動しただけなんだ。」(9月初旬)