JAPANについての覚書 その2


この文章は短いobsessionの集まりで 
順序をもたない組み合わせで書いている
ことの信憑性は保証しない



かつて
ニホンジンの頭の中には
大脳、小脳、そして天皇がある
と、ブラックジョークを言った知人がいた
国家というものを考える場合、
世界経済の中に形式的に組み込まれた
システムとしての
天皇制を対象化せざるをえない、という意味では
あながちジョークでもなかろう
国王の最高の政治的行為とは何か
それは性行為だ、と マルクスは言ったが
天皇制度の順延は
パロディーのそのまたパロディーとして
その存在意義を一枚一枚はがされながら危うくも機能しつづけている


御真影は複製写真であった 
それにしても、複製され地方にばらまかれた昭和天皇の像は
やがてなくなるのだろうか それとも
音もたてずにひっそり生き延びるのか
写真の原版は1989年までは現存していた 昭和天皇の対応物だった
そして昭和天皇崩御して多くの昭和の記録が語られ、
その像は国民の記憶になった


時がたち
文化としての「日本」は
「J−」という経済効率を考慮にいれただけの
記号にとってかわり
「JAPAN」は対外的にはより複製可能性を高めることができる
ヴァリューとなった
(にしても未だ700億の借金をかかえているのだが)
都市生活者が生活をしている間でも
(映画上映と似たような方法で)複製され配給された像、
昭和天皇が辺境地の家の内部に視線をそそぐ
その場所で昭和天皇と目をあわすことだってできるだろうが
はたしてどういった必要から御真影が飾られるのだろう 
現代において 不思議でならない


さて
池袋にサンシャイン60というビルが建っている
その場所はかつて、多くの戦犯がそこで殺された土地 
刑場だったということを
最近知った
731部隊の細菌工場はどこにあったのだろうか)
一昨日
新東京タワーが2010年頃、墨田区のある土地に建つということで
莫大な金が動いたらしいが
高い建物はよけいに東京一極集中型を促すだけだろう
だんだんと見通しが悪くなる
見通しが悪くなるとヴェクトルは内側に向く


ミシェル・フーコーの分析した一望監視装置
古典主義時代から変わらないことだが
上方から下方を見る権力を必要とする国家政治は変わらない
デジタル放送用の電波が上空から飛ぶまでに あと4年あるが
電波を飛ばす権利は開放されない 誰がどのようにその権利を買うか
知らされることもない しかし一部で
あの空気は誰のものか 競争原理も上昇する 
大衆の手にわたったワールド・ワイド・ウェッブ上の交通経路は
どんどん速くなり、画面は動きを増す 
一方で速さのイメージが遅さの現実を促し 遅さは身体の澱となる 
そして
ある日、気づいたらテレビ制作のプログラム生産が個人のもの、
動画メディアの縮小再生産回路になっているかもしれない 
しかし 富の分配の不均衡、分配過程の不可視性、
搾取を搾取と気づかさせないための国家のプログラムは
「誰が誰に向けてどのように権利を主張していいのか」
という問いを宙吊りにしたまま
無為な時間を蔓延させていることに 成功していると見える
電波と電磁波と光ファイバーはどこかで結託している
この認識から触発するメディウム、たたかいの武器として
電子経路とその外側を
とらえなおす必要がある


御真影に話を戻そう ベンヤミンを敷衍して言えば
複製芸術は複製物それ自体のアウラを希薄化し
原版のアウラを強化するが
敗戦とともに
原版の原版つまり
人間(実体)になった現人神(虚構)
という構図をなおも強化しつづけている
ように見える
虚構であれ
そこにはアウラがつきまとうことを知らしめる
それにしても 
システムとしての天皇制が「嘘も方便」として政治家に使われたとしても
「嘘から出た誠」はナショナリズムに帰着しただけではなかったか
総動員されたのは虚構のための虚構、それを正当化する物質−現実であった


若者のデモには目を光らせるが 右翼の街宣には目をつむる
警察機構
自衛隊イラク派遣は今もなお続いている アメリカの若い兵隊も死んでいる
と 少なくとも知ることはできる
しかし正確な情報はどこかにあると信じることさえ難しくなっている
と、ふと考えることもある