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東京に帰ってきたとたんに、京都で考えていたことを忘れそうになる。品川駅に着くと、一気に怒涛の人ごみに翻弄されることになり、作動中の洗濯機の中で衣服が水の渦に吸い込まれるように、遠心力にさらわれかける。その連続を回避するように、高輪口から少し歩き、今後の予定を立てなおす。東京、ここには「遠心力からはじきだされる身体」の集合があり、そのスピード、圧力は京都のくらべものにならない。人と人とがぶつかってはいけないというモラルと歩行のスピードを一致させないといけない、この強制力。局所の遠心力がもたらす人体遷移の物理をとてつもない経済エネルギー態に変換するという光景があってはじめて、経済空間が安定的に自立する。経済と物理、それらは裏表の関係だ。これは東京の都市計画性のもっともたる前提条件だと思われる。だが、間をあけていきなりだと、歩行は安定しない。1週間ほど帰省して、戻ってきてみると、足がもつれるほどに、人ごみの強度を感じているわけだ。だが、すぐに慣れてしまうのも事実である。そうしてまた、中継点としての故郷のあわいをゆっくりと忘れてゆく。鼻がぐじゅぐじゅしている。




実家にある書籍を要るものと要らないものと分けてほしいということになり、整理していた。ふとページを開けた西谷修の『夜の鼓動に触れる−−戦争論講義』をパラパラ読んでいて、あまりにも多くのことを忘却していたことに気づき、持って帰ってくる。



京都のとあるバーで、御殿場からやってきてた写真家のお兄さんが、急に、ものすごく古い旧式の蛇腹状の写真機を三脚にとりつけ店主を撮影しだした。すりガラスのファインダー。黒衣をまとって見せてもらう。上下反転の虚像。ハッセルブラッドのファインダーを覗くよりもはるかに美しい。写真を撮ったあと、彼は「天皇がもうすぐ京都に戻ってくるんじゃないか、という妄想から逃れられない」と言っていた。御真影でも撮った気分になったのだろうか。