いずれにしても


映画は1895年にできたということになっている
今は2006年だから111年ということになる
111年とは人の(長めの)一生くらいなのだろう
111年の映画史の中で見るべき映画は少ない


111年生きながらえた人の中で思い出されるいくつかの記憶
二つの世界大戦、ベトナム戦争、続行中のイラク戦争


現代のこの国には戦争はない、と人はいう
だが
鉄が肉につきささり、血が流れることと
神経症で身動きが取れなくなることと
なんの違いがあるのか


もうすぐ夏だということでJRが旅行のキャンペーンをしているが
吉永小百合がポスターの中で笑顔をふりまいている
白人の女が楽しげにしている東北への旅行を宣伝するポスターもあった


1950年代にテレビが映画を模倣しはじめて
1970年代あたりから人間がテレビドラマの人間を演じはじめたときに
映画は映画でなくなった
という人もいる


だが
評論家や学者が教えてくれることは少ない
うれしそうにテレビドラマのことを話す中学生と
うれしそうに昔の映画のことを話す大人と
変わりはない


少しでも高級で文化的な居場所を確保しようと
安い金とひきかえに労働力を売っている映画業界人や映画人も
楽しそうに映画のことを話してくれるが


教わることは何もない


人にすすめられて見る そして落胆する映画もたくさんあるが
いちいち口を出す必要さえ感じない


映画以外の技術が映画技術を用意した
そういう意味で、歴史は必然である


詩・音楽・彫刻・演劇・絵画の歴史に比べれば映画の歴史は若いはずで
総合芸術という限りにおいて、
それらから個別に学ぶことはたくさんあるのだが
表層の技術だけが暴走し、
(あるいは資本主義システムによって暴走を強制され)、
じっくり考える時間を奪う
考える時間さえ奪われている、そのことに気づいていない映画が
よい映画だと言われる
場合もある


わかりやすいことだけが受け入れられ
脳は退化してゆく


老いたものたちが若さを装っているだけの若い芸術は
どこか倒錯していないだろうか