『花とアリス』




リリィ・シュシュ』についてのメールが送られてきて、ああ、見ようかなと思ったが借りられ中。で『花とアリス』。冒頭部、ホームの駅名がパッパっといかにも適当に繋げられているのだが、「水木」「藤子」「手塚」と出てくる。「これは漫画なんですよ。」と言いたいのかとまず思った。鼻につくアリュージョン。で、舞台は手塚高校。手塚治は少女マンガの原型だ。以下、ざっくばらんな感想。





観客を飽きさせないようにするためなのか、まず音数が物量的に多すぎると思った。最後まで断続的にしつこくなる弦楽曲。ヘンデルの『水上の音楽』に似ているのは別にいいのだが、和声の使い方が似たような楽曲ばかりなので食傷してしまった。ジャンル的に見ると純愛学園もの?電車で偶然見かけていらいのぼせてしまったお気に入りの男子学生をものにするため、花はあるきっかけで彼に「記憶喪失だ」と男子学生に訴える。物語=虚構を発動する上でのこの「きっかけづくり」がかなりしらじらしすぎる。こんなんでは今時の観客はだまされへんでーとか思う。花とアリスが嘘ついたり、芝居うったりして、譲り合っているのか奪いあっているのか判然としないが、結果的に奪い合っている男子学生のキャラクターづくりが平板すぎる(それにしても性格が平板すぎる、奥行きを欠いているから好きになってしまうという構図そのものは80年代的シニシニズムの延長にしか思えない)。だからか、女の子の部屋の内部はふんだんに見せているのに、男子の部屋が現れない。これは物足りなかったし、マーケティングが少女向けだとしても、男女を同等に扱っていない。





恋愛を描くにあたって重要なのは好きな人に向かってなぜ「好き」とは言えないかをどのような方法をもって描くかであろう。少女は少年に向かってなかなか「好き」とは言えない。この「なかなか」という部分、告白の遅延こそが恋愛の核心部を少女の主体に回付させてゆく。プルーストしかり、バルザックしかり、近代小説をベースに持つ恋愛観はいかにまわりくどく相手に「好きである」ということを「示唆させるに留めておく」=「相手から告白させる」ということにあったはずだった。それは男女の目が見詰め合っては始まりを告げ、どちらかが触れば終わってしまう、その間の微妙な関係の揺らぎを丹念に描いてゆくことに他ならないだろう。関係を丹念に見せるには嘘の輪郭が強ければ強いほど、細部が効いてくる。だが、この映画は嘘のつき方が最初から弱い。





まず花が男子学生の宮本を手に入れるため(「付き合う」という動詞に関係を還元するため)嘘を発動させる。宮本は嘘に答える。半信半疑で答える。「おれは記憶喪失じゃないけど、そのフリしてみるのも面白いかも」という感じなのだろう。岩井俊二はフリをする疚しさ、罪悪感、えぐりがいのある内面、あまりに人間的な人間性ニーチェ)を、ことごとく、やわらかなマネ的な(いや、ドガ的な?)光線や重力も強度をも欠いたモンタージュバレリーナの乱舞や、海辺の縄跳びや、トランプ・カード遊びに回収する。宮本はあまりにも軽すぎるというよりも、半身半疑で記憶喪失のフリをするから中途半端にアリスを好きになってしまう。ようするに「記憶喪失であることを演じつづける」ことが、中途半端な恋を発動させる。この演じるという部分に恋愛のゲーム性を読み取ってもおかど違いである。嘘の演出が弱いから最初からゲームにもなっていないのだ。内容が中途半端かつ弱い嘘で埋め尽くされているから、逆に光という絶対性に依拠してしまう。でも、こういう映画が平均的な日本人を適度に啓蒙し、従順な若者を生産してゆくのだろうな。




ウエハースを食べ過ぎたような、まったりじっとりした後味の悪さだけが残った。ウエハースを食べ過ぎたことなんてないけど。