海は




見ていない。波の音も聴いていない。なにをしていたか?昨日に引き続き横浜美術館レクチャー・ホールで映画を4本。ジョナス・メカスの『グリーン・ポイントからの手紙』(2004)を見た。くらくらした。ビデオテープの劣化したノイズが映画の滑らかさをすでに引き裂いている。こんな過剰な映画は見た事がない。無にへばりつく過剰さとでもいおうか?すごい映画だった。真夜中の部屋でライク・ア・ローリング・ストーンを大音響でかけて、バカ騒ぎするメカスの姿。メカスの連れ合いのハーモニカの強い音。あれだけ強く吹けばきっと頭がくらくらするに違いない。そして病的なまでに健康なメカスの姿が最後まで続く。なかなか完全には壊れようとしないオモチャのように、最後までいかれている。フィルムアート社から出ていた『メカスの映画日記』で、ポール・モリセイやジャック・スミスらと商業映画を執拗に批判し、アメリカン・アンダーグラウンドを懸命に構築しようとしていたメカスを知ったのはいつのことだったろうか?しかし老いてもなお撮り続けている姿には感銘を受ける。すばらしい。メカスの前には『セレブレート・シネマ101』を見ていた。以前、広島で見たときはごっそり眠っていた。だから今日始めて見る。青山真治のバージョンでひさびさにヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『アイル・ビー・ユア・ミラー』を聴いた。この曲の次には『ブラック・エンジェルス・デス・ソング』が入っているのは知っている。ぼくの耳が覚えている。ジャック・インのバチバチ鳴る雑音とともに、途中で中断されれる『黒い天使の死の歌』。それで、ぼくのフィルモグラフィーが『サダム・フセインのしわよせ』という、古典の『竹取物語』を下敷きにした、湾岸戦争のために石油の値段が高騰して、京都の呉服屋が産業的な危機にあうというハンディカムで撮った映画から始まっていた事を思い出した。たしか20才くらいだったか。(ちょうどルー・リードジョン・ケールがグッバイ・アンディ♪と歌っていた頃だったか。)そして『フセイン』の挿入歌にヴェルベッツのマーブル色のブートレグからターンテーブルで回転する『アイム・スティッキング・ウィズ・ユー』を使ったのを思い出した。モーリン・タッカーがボーカルをとっているかわいらしい曲だった。当時は映画の事は何もしらなかった。今もしらない。わからないことをわかろうとする運動だけが継続している。常にわからないことを生産するためにわかろうとする。これでいいのだ。海は見ていない。いつかまた見る。