鈴木了二と宇野邦一の対談



昨日のイヴェントで建築家の鈴木了二と思想家(?)の宇野邦一の対談があった。鈴木氏は「性格が飽きっぽいこともあるが、建築だけやっていると自家中毒になるし、建築を別のメディウムに変換するのも面白い」ということもあって『物質試行』という自作建築をモチーフにしたシリーズの映像作品を作っておられ、一方、宇野氏はドゥルーズの『シネマ2』の翻訳を進められている(夏あたりに出るだろうとのこと)。両者はいわゆる「映画の人」ではないが、非常に興味深い話が聞けた。主にデュラスの映画を軸に話を展開されていたのだけれど、(勝手にまとめると)デュラス映画にあらわれる「遅延」の感覚が映画の亡霊性を際立たせ、ひいては「亡霊性」こそがデュラス映画を特徴づけているということだった。この規定は、トーキー以降の「イメージと声の同期」が性急に商業の論理と結びつけられたことによって抑圧された「亡霊性」だとも言える。『インディア・ソング』など、デュラスの映画は誰が見てもそう感知してしまうように、オフの声と画面がついに同期せず、非−同期性が強調され続け、遅延の感覚と結びつき、じわじわ感(鈴木氏)だけがずるずると続いてゆく。むろんサイレント時代の登場人物の状態は声を欠いているというだけで、亡霊的だったのだが、声の出ない口に声が与えられることによって、人間になり、人間の表象が人類の生活習慣と同期してしまうというフィクションを助長させることによって、いやが上でもデュラスの映画はその亡霊性=非同期性をもって他の多数派の映画と比べて目立って特異なものとして映ってしまうのだろう。しかし、重要なのは、声を与えられ、亡霊が人間になったとしても、映画という媒体はその性質上「失われた後の世界を描く事しかできない」(宇野氏)という意味でトーキー以降の映画も亡霊的だという認識である。(映画はあらかじめ亡霊性を囲繞している)。それはリテラルに考えて、「今、ここにないはずのものがある(あると同期して見えてしまうような時間差を形式上内在させている)」という意味で、亡霊的だということである。ジャン・コクトーの有名なフレーズだけれど「映画は俳優が死にゆくプロセスの一瞬一瞬を写し撮っている」という意味でも捉えられうるし、ドゥルーズも言っていた「生とは崩壊のプロセスである」という日常の生活習慣からはかけ離れた意識だが、それなしには生活習慣が保証されないような場所において映画という媒体それ自体を亡霊としてしか見ることができないという意味で<映画=亡霊>の認識がなされうるということだろう。(写真というジャンルに心霊写真があって映画というジャンルに心霊映画がないのはこのためかもしれない)。あと、気になったのは「イメージ」という概念は極限概念だという宇野氏の発言だった。どういった文脈で「極限概念」なる概念が出てきたのかは忘れてしまったが、「イメージする」という頭の中でなされる動作以上のことが人間にはできる能力があると仰っていた。そこで、ぼくはハッとしたわけだが、多くの人が容易にかつ安易に「イメージ」という言葉を濫用し、たしかに便利な言葉で、ぼくも使いはするが、実のところ誰一人として「イメージする」ということが分かっていないんじゃないかと思い立って、「イメージ」ないし「イメージする」ということを再考察するために、「IMAGON(イマゴン)」という仮設概念のもとに考え直している(逆にIMAGONという概念を構築するためにIMAGEという概念を理解しようとしている)。だけどイメージがたんなる概念ではなくて、極限概念だというとき、その極限とはいかなる意味で極限なのだろうか?そして「イメージすること以上のことができる」と言った場合、実際は頭の中では何がおきているのだろうか?