『ポリティカル・トリロジー』




屋外、生気ある場所。あちらこちらにうごめく顔の煌きや動物の声。突如訪れるリズムに反応する身体。・・・脚の、ひざこぞうの、腕の、胴体の、腰の線のめまぐるしい動きと変化。楽器を奏でる手、ピックを持つ指のはら、よくみがかれた爪の輝き、血管の浮きあがるたくましい腕。屋内、生気ある場所、四散する声、笑い声、戻ってくる声、出てゆく声、さまよう声、力のある、生気ある、脳髄に響く声。寸劇が開始される、変革のための、認識のための装置、ハリボテで作られたかんたんな、だが政治的緊急性をあらわにしたブレヒト的装置、そして、たたかいのある場所のはじまりとそのつづき。繰り返されるたたかいのエチュード、そのエコー。・・・2005年、インドネシアのインディペンデント映画界のボスともいわれるガリン・ヌグロホ監督の撮った『ポリティカル・トリロジー』(『Tolilogi politik』)を見た。つい先だって日本で初公開された。30分のこの映画はまず教育装置としての寸劇が開催されている光景を細かに切り取ってゆく。オランダの植民地としてのインドネシアを子供たちに教えるために、インドネシアが近代化されてゆくのに使われた船の往来する港を、そのむかしの光景があることを子供たちに教えるために。ダンボール箱を引きちぎって、色を塗りたくったキッチュなオランダ船が青いペンキの海上を左から右へ移動する。その船の動きがいやが上にもコミカルで、即興的で、活気があって、おかしみがあって、そのやたらな速度の体現に思わず笑った。すばらしい。そして、スハルト政権の抑圧を断ち切って、パプアの独立運動のために、人民は立ち上がる。ヌグロホの反復する、(そしてメッセージは常に反復することによってメッセージへとなりゆく)声の強さ。明るさ。透明さ。「スクリーンとはわれわれなのだ。自分たちの顔、歴史、言語生活を体験し、真のインドネシアになるためのものだ」と、繰り返すその張りのある明るい声。カラフルな民族衣裳。人民の笑い声。これはたたかう映画だ。たたかう映画を否定してはならない。(国民の感情こそが二つのカットをモンタージュしているという発言をした中井正一、そして、「日本映画などない、なぜなら日本という国がどのような国になりたいかを提示している日本映画がないからだ」という発言をしたゴダールの間でヌグロホのたたかいの身振りをかんがえなくてはならないだろう)・・・ぼくはガリン・ヌグロホという強そうな名前を覚えていた。名前を覚えていたから若干気になっていた。その名を始めて知ったのは『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』14号の22、23ページ上のことだ。だから1994年に始めてその名前を知覚したことになる。そのページには、1993年に作られた『天使への手紙』という映画についてのレビューが掲載されていた。見出し文字で「ここにはジガ・ヴェルトフ時代のゴダールが嬉々としてる」とゴチックで印刷されていた。書き手は稲川方人。そう、『ポリティカル・トリロジー』も「嬉々としてる」という表現がぴったりとくる。そして昔の『カイエ』に載っていたことを、この「たたかう映画」の日本語字幕をつけた西原多朱に告げたら「ええ?そうなん?」と関西弁でかえってきた。