D夫人、または東急世田谷線のアンニュイ





「ぶどう・・・」と、なんの脈絡もなく、ふと口をついて出た「ぶどう」というかすかな音を鼓膜に残したあと、彼女、つまり世田谷の有閑夫人のなかでも、指折りの時間とお金をもてあましているだろうD夫人は、腕時計をちらっと覗いたかと思うとバルコニーのカーテンをさっと閉めてはてきぱきと髪を結いはじめ、せわしなく身支度をすませたあと、こぶりな寒椿の咲き誇る小さな坂道を降りて、下高井戸駅まで歩いてゆきました。高級婦人服をあつかっている馴染みのブティックのショーウィンドウがD夫人の姿を反射させます。あら・・キャメルブラウンの皮手袋が少しもワタシに似合っていないのはどうして?いやだ、漆黒のものにすればよかったかしら、と後方から聞こえるワンちゃんの甲高い声になびくように、いましがた歩いてきた方向を振り向いてはみたものの、しかし、いくらワタシが有閑マダムだとは言え、「あの人」が来る時間に決して遅れてはいけない、と自分に言い聞かせながら、足早に道を急ぐのでした。自らがプティ・ブルジョアジーであることを露にも隠そうとはしないD夫人、彼女のここしばらくの午後の密かな愉しみはその後方に年齢不詳の女添乗員を配備させた東急世田谷線のやわらかいシートに身をゆだね、そのめまいのするような遅さにゆったりと身を任せながら、平日の昼、きまって2時から2時半頃にヴォルテールの『カンディード』を原著で読みながら三軒茶屋に向かう「あの人」に目配せという目配せをしつつ、誘惑することなのでした。・・・「奥様、今日も素敵ですわね。暗くなるまで待てないですわ。」ホームに突っ立っているいつもの女添乗員が話しかけてきました。「暗くなるまで待てないですって?そう?それではティファニーで朝食が摂れるはずがございませんわね。おほほ。」ふたりはなぜか意気投合したように、微笑を交わしあうのでした。D夫人のつばの大きな帽子が突風に飛ばされそうになったその時、「あの人」が近づいてくる気配がしました。「おくさま、右側に気をつけて。ほら、ゴキブリ。」D夫人は、あわてることなく、小さなゴキブリをさっとよけながらも、発車寸前の東急世田谷線に飛び乗ろうとしました。・・・「ところで、おくさま、今日はクイズを用意してまいりました。」気がつくと、「あの人」の手がD夫人の落ちそうになった帽子のつばを支えているのでした。




「現在、なおもって世界ナンバー1の売り上げを誇るシャネルの5番が発売された年は?」
1921年。」
「じゃあフランスのバンド<リタ・ミツコ>がそのバンド名を借りた香水の名前は?」
「ミツコ。」
「じゃあ、ミツコの発売元は?」
「ゲラン。」
「じゃあ、ミツコが発売された年は?」
「1919年。」
「正解です。おくさま・・・・少しお話してよろしいですか?」
「ええ。」
「雨音は・・・・物音を隠します。雨の日に犯罪が多いのもそのためです。雨は記憶を切断します・・雨は雨が降っていることだけをわれわれに示すからです・・・・ああ、雨がふっている・・・でも、忘れてはいけないことと覚えていることは違う。忘れられないことと、忘れてはいけないこともちがう。忘れてはいけない。そう、記憶喪失の雨は、ぼくに注意を促します。記憶を喪失するなと。でも、雨は確実に何かを分断します。例えば、わたしとあなたを・・・。」