『ジョゼと虎と魚たち』についてのソフトな会話♪




△「ジュリちゃん、かわゆい・・・」


○「上野樹里ちゃんね。彼女は広末涼子と同じ、クレアラシルのイメージガールだったんだよ。」


△「そうだっけ。ぼくが見たのはNHKの連ドラの「てるてる家族」(2003)が最初だったかな。その前には消防署のポスターなんかに使われてたんだよ。火の用心!ってなキリリとした顔でね。」


○「兵庫県生まれの子っていいよね、あややもそうだし。応援するわ。」


△「しかし、「ジョゼ虎、泣けますよ。」なんて、人からすすめられて見たんだけど、いけすかない映画だったな。泣けるどころか苛立つばかりだよ。」


○「そうね、なんかテレビっぽい作りだったわね、映画っていう感じがしなかったわ。」


△「陰影がない、モノの翳りがないっていうか、全体的にフラットでべたーとした照明だったよね。あ、夜のシーンがひとつもなかったのかな。とにかくすっげえポストモダンな感じがした。」


○「一言で言えばPC(politicaly correct・・・政治的に正しい)な映画。身障者を描いているから、あまり文句が言えないようになっている。しかし、配役たちはまるで島田雅彦が「左翼」を「サヨク」と表記した(『優しいサヨクのための嬉遊曲』1983)ように「身障者」を「シンショーシャ」といかにも気軽に発音しているように聞こえるのが気になったな。そこがポストモダンっぽい。ある種軽薄さを売りにしているよね。カタワって言うより、性質悪いな。」


△「そう、犬童一心監督の「この映画はどうしても暗くなっちゃいけないんです」っていう内面の叫びが聞こえてきそう。別にシリアスに描けって言うわけじゃないけど、これ見て喜んでいる大人が信じがたいよ。」


○「原一男監督のドキュメンタリー『さようならCP』(1972)が身障者を扱ったモダニズム映画の最高峰だとすると、『ジョゼ虎』(2003)は、まったくもってポストモダン。『さようならCP』はカメラの客観性を追及しただけの一切虚飾のない冷徹な映画で、ぜんぜんPCじゃないんだけど『ジョゼ虎』はPC。主人公のジョゼっていうのはたんに足の悪い女の子という設定の方が説得力があったのにな。だいたい散歩行きたいんだったら、杖ついていけよって言いたくなるわね。杖くらい役所から借りてこいっての。」


△「いずれにせよ『ジョゼ』の全体は微細なモティーフではなく、大文字のイデオロギー的なテーマに支配されている。「男−女」「健常者−身障者」「性的欲求−日常の理性」といったよく言えばわかりやすい、悪くいえば乱暴な二元論的テーマの中で、なぜか、ややアナクロ恋愛風ジェラシーが貫通するありふれた三角関係の内部でジョゼの性的日常へのアンガージュマン・・やや専門的に言えばノーマライゼーションが優位に立ってしまう。」


○「そう、図式が文化人類学なのよね。」


△「ジョゼと大学生の男、恒夫がつきあっているのを知った上野珠里(彼女は恒夫に惚れていて、大学を卒業して福祉関係の仕事にすすみたいという設定)が、ジョゼを指して「あんなショーガイシャのどこが・・・」みたいな感じでジェラシーを露にするシーンはなかなか「監督、やってくれるよなあ」とは思ったんだけどね。」


○「でも、あれは健常者同志の恋愛を擬似的に置き換えただけのセリフ。すごく乱暴だわ。多くの映画がそうだけど、象徴秩序的な言語慣習システムに依存しすぎてるなと思った。なんか映画用のセリフなんだよね。クサイんだよ。演技も。」


△「ともかく全体的に気に食わないのは「無知な若者に対して啓蒙してるんですよ」的な横柄な態度なんだ。この態度にはモラル(道徳)はあるかもしれないがエチカ(倫理)がない。まあ、とりあえず若者は啓蒙されればいんじゃないかな。」


○「そうね、全面否定する必要はないけれど、大いに批判してほしい映画だね。」


△「むかしばなしでなんだけど、ぼくは社会福祉科を中退していて、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920)を基本文献にイギリス18世紀の資本主義(重商主義)論からマルクスの資本主義分析を通過し、森永砒素ミルク事件(1955)の実態調査や精神病院、諸施設での研修、箱庭療法精神分析、身障者の性欲問題などなどをプラクティカルに、かつ、おおいに手抜きしながらやっていて、一方でニーチェバタイユランボー的ラジカリズムを青臭くも追及しながら遊び呆けていて、少々分裂気味だったんだよなー。まあ今でもたまに言われるけど。」


○「ニーチェの「道徳の系譜学」(1887)なんて福祉批判の書だからね。」


△「その通り。」


△「で、ジョゼはいつまでたっても身障者には見えないし、身障者という記号を借りた欺瞞的な映画にも思えた。」


○「それに、ジョゼの日常を「これってちょっと気が利いてるよね。お洒落でしょ?」ってな感じで、フランソワーズ・サガンの小説の主人公「ジョゼ」に投影させて、全体の画調、フレーム構成なども、ほのぼの感あふれるロマンティシズムに安易に回収しすぎているところも、なんだか犯罪的に鬱陶しい。監督はモノを見ていないのに、モノの関係を見た気になっている。」


△「ちなみに原作は田辺聖子で関西弁文学の代表者?でもぼくは関西系女流作家だったら富岡多恵子の方が好きだな。むかし坂本龍一と一緒にレコード作った人。」


○「それでは、さいごに久々のドゥルーズガタリ、『ミル・プラトー』(1980)から引用しましょう。この認識は『ジョゼ虎』よりも重要。」


△「じゃあ、ぼくが声を大にして読もう。・・・


・・・しかし戦争機械が国家に所有されればされるほど、戦争は惨たらしいものになる。そしてとくに国家装置は不具や死さえも、あらかじめ存在させる。国家装置にとって不具や死はすでにそこに存在するものであり、人間が不具やゾンビーとして誕生してくることが必要なのである。ゾンビーや生まれたての死者という神話は労働に伴う神話であり、戦争にともなう神話ではない。不具は戦争においては結果であるが、国家装置や労働の組織・体制においては条件であり、前提である。(労働者だけでなく、<片目>や<片腕>といった国家統治者自身の先天的な不具性はここに由来する)。・・(略)・・・秩序の最下層でも最上層でも、あらかじめ身体障害者、手足を切断された者、死者として生まれてくる者、先天性虚弱者などを必要としているのはまさに国家装置なのである。」(『ミル・プラトー』P.482 ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ