「IMAGE」と呼ばれる対象についての唯一の回答へのヒント その7

(その7)







■16

メモ15より「事物」「像」「表象」「イメージ」の関係は明らかにされた。イメージは、所与の時間にも、空間にも属さない、「事後性」において、論理的に発生する対象であった。しかし、メモ15の付記で示したように、イメージが論理的に発生すると同時にその発生をある種の全体性をもって基礎付けるようなイメージもまた所与の条件として「ある」ことを分析する必要がある。それはイメージ発生の論理的条件としてのイメージであるといってもよい。



■17

メモ15の例証サンプルにおいて、支配的な(メジャーな)表象でもあり、像でもある「携帯電話」「中山美穂」を<イメージA>としよう。そして事後的に発生したイメージ「実際に中山美穂から電話がかかってくる」というイメージを<イメージB>としよう。<イメージA>は<イメージB>の論理的諸条件となっている。そして、注意しなければならないのは<イメージA>にはそれ自体に含まれている「<事物><表象><像>」が内包されていることである。

<イメージA>=事物、像、表象を内包しつつ所与として「ある」メジャーなイメージ
<イメージB>=所与としては空間的、時間的に「ない」事後的に発生するイメージ

■18

見る主体が<イメージA>を「今、まさに見ている」と確信しうるのは、<イメージA>に内包されている非−論理的な<X>(つまり、われわれがそれを携帯電話とか中山美穂と確信しうる対象)に準拠しているといってよい。そして<イメージA=X>こそが、<イメージB>の真の論理的発生の原因であるといってよい。



■19

もちろん「非−論理的な<X>」は即時的に「それはイメージ」だと確信されうる場合が主観的に起こりうることを見逃してはならないだろう。そして通常われわれが「見る」とか「見ている」と対象を直接的、無媒介的に確定しうるのは、<X>の非−論理性をまさに「見る」「見ている」ことに他ならないのである。



■20

<X>の非−論理性を説明しておこう。繰り返しになるが、すでにお分かりのように<X>に内包されるのは<事物><像><表象>であり、それらが相互に自律している客体性それ自体である。<事物>としての携帯電話はそれを確定的に記述しうる<像>であり、それを「携帯電話」であると名指しうる<表象>でもあった。しかし、われ―われが実際に「それを見た」とある種の確信をもって言える、この確信に対する「信」は次のように言いかえなければならない。つまり、「本来的には同期しえない<事物>と<像>と<表象>を同期させながら見た」と。事物は事物であり、像は像であり、表象は表象である。実際の携帯電話は、その携帯電話を代行した像でもなければ表象でもない。この当たり前ではあるが、それが当たり前でありすぎるあまりに見逃しがちな構造を、一気に解消してくれるのが、つまり、われ―われがそう名指すところの「イメージ」なのである。



■21

メモ15〜20において、われ―われが通常イメージと呼んでいる対象には二つあることが明らかにされた。それは所与の時間、空間に帰属していない<イメージB>と、すでに帰属している<イメージA>である。



■22

われ―われは<イメージB>を見ることができると同時に、<イメージA>を見ることはできない。そして<イメージA>を見ることができると同時に<イメージB>を見ることはできない。



■23

あらゆる映画はメモ15〜22の原理において見られているし、又、制作されている。



■24 (参考メモ)

オランダの数学者ブラウアー(1881‐1966)によると、知性の根本には「two-onenessの直観」がある。知性には、諸瞬間を質的に異なる二つの部分に分割し、しかも同時に想起作用によってそれらを意識の統一下に置く作用がある。過去に置き去りにされた人生の諸瞬間は、自我から切り離され、世界へと移し変えられるが、このように時間的に生成される自我と世界との二項的な現象列(x,x)自体が、今度は新しい二項性の一つとして把握され、かくして時間的な三項性((x,x)x)が作られる。このようなプロセスが限りなく続くことで、((((,,,,,,,,,,(x,x)x,,,,,,,,x)x)x)x)x)というように、すべての順序(数)が生成されていくというのである。ブラウアーによれば、自然科学もまた「two-onenessの直観」から作り上げられていく、(プロセスとしての)因果性のカテゴリーによっている。