プラダ青山店


スイスはバーゼルを拠点に活動する建築ユニットであるヘルツォーク&ド・ムーロンが設計した「プラダ青山店」(2003年6月オープン)。2008年に開催される北京オリンピックにおけるスタジアムの設計もコンペティションで獲得したという彼らの設計したこのブティックは、業界的には次のように評されている。「ヘルツォークは独特な皮膜の造作で有名ですが、形はただの箱だったりする。ですから、こんなおもしろい建物が造れるんだ、と驚きました。外国人建築家が日本で仕事をするとき、名義貸しのような手抜きの場合もあるのですが、ヘルツォークは本国でも試していない可能性をきっちり示している、見ていて気持ちがいいですね。」(五十嵐太郎)。「見ていて気持ちがいいですね。」なるほど。さて、ぼくがこの建物を見に行ったのは2004年の9月の下旬のことだった。それも、自ら積極的に見に行ったわけではなく、東京に遊びに来ていた妻に半ば引きずられて行ったのだった。(今日、そのあたりを歩いていてあっ、ここ来た、と少し感動したのだ)。ブラダ青山店はものすごく目立つ建物である。建築についてたいした知見を得ないぼくには、「こういう建物」をつくってほしいと注文したり、また注文を受けてつくったり、それを見に行ったり、楽しんだりすることが、なぜかとても不思議な行為に思える。「こういう」というのは、誤解を恐れずに言えば「主張のはげしい」と言い換えてもよい。どこか「見て欲しい」という主張が度を超えていて、それに答えて「じゃあ見に行こう」という単純きわまる因果の自明性が不思議かつ不可解であり、その建物の表象がなりふりかまわず周囲に与える効果をどこか鬱陶しいとさえ思っていた。そして都市や一定のコミュニティーには「ランドマーク」が必要だったり、「楽しさ」が必要だという考え方にはどうも馴染めない。「自己主張のはげしい家に住みたい」という人も、この世には多くいるだろうが、どうもその真意(自己主張してもぜんぜんかまわないし、むしろおおいに主張してほしいのだが、建物の力を借りて自己主張を手伝ってもらっているとしか思えないような自己の真意)が分からない。要するに「欲望なのだ。」と言えば手っ取りばやいのだろうが、それはかならずしも自己を建築する欲望とは連続してはいないだろう。―――そして、あたりまえのことを言わせてもらうと、「プラダ青山店」が最初に目に飛んできた瞬間の感覚(ある瞬間に感知するモノのダイレクトさ加減)は、まさに「プラダ青山店」そのものに固有なヴォリュームと形象にしか表現できない。まあ、正直建築のことは本当によく分からないのでえらそうなことは言えないのだが、しかし最近ちょっと気になるのが「建築」だったりするので覚え書き程度に書いてみた。なお、プラダ青山店が一般的に面白いと言われるのは、何人かの数少ない知人が言うように昼の表象(内部は透けて見えない)と夜の表象(内部が透けて見える)の極端な変化であったり、それこそ、ラムネの瓶を巨大化しつつ、ざっくりと斜めにカットしたものに網タイツを被せたようなちょっとコミカルな外見であったりする。だけど、ぼくが一番興味深かったのは建物そのものよりも建物の周りにあるスペースなのだった。なぜならそのスペースは無意味に歪んでいたからだ(それをスロープと言うのは憚られる)。おそらく機能主義的に考えて、それを歪ませる必要があったわけでもない、むしろ狙って意図的に歪ませたスペースだろう。ただ、床が歪んでいたという物理的事実が、それを感受しているぼくの身体をして、ちょっとしたぐらつき(身体感覚のブレ)をもたらし、ちょうど、それは船酔いがこれから始まろうとするような感覚だったのだ(と言えばおおげさかもしれないが)。もちろんブティックとのコントラストを意識してのことだが、しかしそれをなぜ面白いのか?と問われても今のぼくには論理的に答えることができない。