建築ノート 7


建築ノート 7





建築の解体現場にはいつもゾクっとさせられる。それは「快・不快」で言えば、「快」であり、なおかつ爽快である。この春、近所でたてつづけに二つの現場の解体がはじまり、そして、ようやく解体がおわって更地になった。「在る建物」がなくなり、そして更地になる。そして「在る建物」は「かつて在った建物」になる。「かつて在った建物」はひとびとの記憶に残りもするが、忘却されもする。





最近になってようやくわかってきたのだが、わたしは建築そものもにはあまり関心がない。どちらかといえば、建築が成り立っている条件とか、建築物の制作技法、そして重機の進化、大地という観念に関心がある。ただし、それは「都市内部」における建築に対してであり、言い換えると、「都市の条件」を問うことに傾向的に関心が赴いているのだとも言える。





ところで建築の解体現場の知覚がなぜ「快」の感情をひきおこすのか。まず、言えるのはそれが「カタルシス」(浄化)をもたらすからである。より大きな建築物になればなるほど、このカタルシスは大きくなる。巨大な重機を用いて「いま、まさに」解体されつつある現場に遭遇すると、この上なく爽快な感情がひきおこされるのだ。それでは、なぜ、この「快の現象」が「カタルシス」とかかわっているのか。理由をふたつあげておこう。





ひとつは自明なことである。まず、現在のところ、人間が地球上で住む限り、万有引力からは逃れられないという事実がある。言い換えると、すべての物体は落下(崩壊)する運命にある。建築物それ自体は、万有引力に逆らいながら建造されるが、また、万有引力がなければ、建築物を立てることなどできない。なぜなら、すべての建築物は「固定」と関わっているからであり、それが変換可能なモデュロール(コルビジュエ)という形式を導入していたとしても、いったん「固定」するという確約があって初めて、人間はその内部に居ることができる。すべての建築物は「揺れ」や「ブレ」を排除することによって成り立っている。(仮に「揺れ」が起こったとしても、どれだけその「揺れ」を吸収させ、拡散させる構造体を導入するかという手法とも関わっている)。





解体現場の「快」は、まず「建築物が万有引力に従っている」ことを知覚することに関わる。いつもの建築がいつもの建築でなくなる過程、それこそが、解体過程である。これはいわば建築物が「自然に帰る=万有引力にしたがう」ということでもある。解体こそが「自然」であり、一切の建築は「不自然的=人工的」なのだ。そして、歴史的に考えて、人間は自然を征服しようとしてきたが、これは「万有引力=重力」を征服しようとしてきた、と言い換えることができる。






ふたつめは、社会的、形而上学レベルでの「快」である。それは端的に言えば「ユートピア」という観念に関係がある。「ユートピア」は16世紀初頭のイギリスでトマス・モアが提案した、ひとつの「社会の理想」であるが、作品『ユートピア』は当時の堕落したイギリス社会への「警告」として書かれたものであり、「どこにもないものとしての完全無欠の理想郷」という意味合いである。それは永遠におとずれないばかりか、それを実現しようとするなれば、かえってそれがいつまでたっても実現できないことが強調されてしまうというパラドキシカルな想像物である。にもかかわらず、われわれが、現在住んでいる社会や都市においては、「ユートピア=善」という図式が暗黙に成り立っている。そして建造物や催事の固有の名称として「○○トピア」「○○ピア」と名づけるのはありふれている。解体現場の「快」は、この「ユートピア=善」の意識ともかかわっている。






「老朽化した建物が壊され、新しい建物に変わること」、それ自体は、安全上および衛生上は「善」である。だれしもが「ディストピア」(悪)を廃し、「ユートピア」(善)を実現させること、それ自体を疑いなく「絶対善」とみなすことは許されている。そして、ユートピアの志向は、この「絶対善の前提」の上に成り立っていると言える。とはいえ、建築の解体過程の知覚は、「ユートピア」へと向かう過程に不可避な、「今、まさに」行われている「一時的なディストピア」に触知できる機会なのであり、またたくまにして失われる「ディストピア=建造物のリアルな崩壊」に触れたという知覚こそが、「ユートピア=善」を逆照射するのである。ゆえに、崩壊の崩壊、つまり「更地」が出現することにも一定の快の感情が伴うのである。






「建築ノート第1部 (建築ノート 0〜6)」は2010年5月に書いた。第1部は「建築に対する無関心性」についてのものだったが、第2部では、「都市」の概念を扱うことになる。「都市論」はすでに語りつくされ、「都市論」自体の消費が終息に向かっているような気がしないではないが、とくに目新しい見解を狙って書かれるわけではない。たんたんと考えるだけである。何回つづくかは未定である。