建築ノート 3




■ 建築ノート 3





ディコンストラクション(脱−構築)をコンストラクション(構築)の問題から考えること」、この動機が通底する柄谷行人の『隠喩としての建築』は、著者が述べている通り、磯崎新の『建築の解体』(1976)の影響下において書かれたといってもよい。柄谷行人磯崎新を次のように評価している。





磯崎は、海外においてどう見えようと、日本において近代という問題を真摯に考える唯一の建築家だった。いいかえれば、彼もまた近代と建築への批判を考えながら、同時に建築への意志を貫徹しようとする「一人二役」を生きてきたのである。そして、私自身にとって意外なことに、建築家に向けられたものでもなく、狭義の建築とほとんど関係のない『隠喩としての建築』が、建築にとって重要であることを評価してくれたのが彼であった。(p.19)





建築家に向けられて書かれたわけではないテキストが、第一級の建築家に読まれ、評価されたということ自体が建築的、それも奇蹟的に建築的たりえた出来事だった。しかし、顧みると19世紀末におけるバウハウスの実践もまた、そのような奇蹟的に建築的な場所において発生していた。ワルター・グロピウスが主導するその場所においては、諸芸術のジャンルを限定し、閉鎖的に囲い込むことなく、むしろ開放し、しかもなお、形式的には諸ジャンルがそれ自身において自律的たらんとする「環境論的−理論的メカニズム」を創造的に内在させていたと言ってよい。グロピウスが「建築」とは直接関係のないパウル・クレーやヨハニス・イッテンをマイスター(親方)としてバウハウスに招いていたこと自体が、「建築」や「美術」の自律性を、その内側から再考察させるようなモーターとして機能する「社会」として機能していたにちがいないからである。(私はバウハウスと間接的に関わりのあった画家のカンディンスキーと作曲家のシェーンベルクが手紙のやりとりをしていたことをも含めて、この「創造的社会主義」の実現を強調しておく)。グロピウスが「バウハウスマニフェスト」で指摘した「工芸家と芸術家との間に高慢な壁を築いて階級を区別しようとする越権行為」とは、今日言われる諸芸術を「ジャンル」として分別し、囲い込む「制度」に他ならなかった。グロピウスにとっては「芸術行為」は「越権行為」であってはならなかったのだ。さて、「隠喩としての建築=哲学」を顕揚し、評価したプラトンもまた、(彼らを軽蔑していたにせよ)、実際の建築家を「知っていた」あるいは「認識しようと努めていた」とみなすべきであろうか。仮にそうだとしたら、それは一種の倫理的態度、哲学者としてのアイデンティファイ(自己限定)を懐疑する態度にあったといってもいいだろう。この柔軟な態度こそが「ディコンストラクションをコンストラクションの問題から考える」という真意に他ならない。それは、端的にいえば、「自己もまた他者である他ない」(ランボー)からであり、「自己への懐疑」こそが、むしろ自己を解体させるような「他なるもの」を(それが積極的なものであれ、受動的なものであれ)要求するからである。




磯崎新もまた、ジャンルの同一性に対して、デコンストラクティヴに働く「歴史」に忠実な建築観を自ら打ち立てていた。比較的最近の発言で、彼は次のようにいっている。




「美」/「崇高」は19世紀末には「装飾」/「構造」と読み換えられていた。1920年代のモダニズムの文脈においては「構成」(コンポジション)/「構築」(コンストラクション)となった。流体構造(フラックスストラクチャー)は対位法的分類に従えば当然ながらコンストラクション「構築」となるだろう。コンピュータ・アルゴリズムが自動生成させたからである。(磯崎新浅田彰『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり−10 years after Any−』2010 鹿島出版会 p.32)




この発言は、何も「歴史」を整理するためだけに概念整理されたわけではない。むしろ、整理するどころか、「建築」を再び解体するために言われたものだといってよい。それは、大文字の建築が終わったと言われ、コンピュータ・アルゴリズムの自動生成によって「自己陶酔」しているような「建築」を再び、批判−解体するためである。「終わりの意識」が同時に「再生の意識」を抱え込んでしまう、この不可避性がどこからやってくるのかを、われわれが最終的に認識することができないとしても。(2010−05−18)