建築ノート 4





■ 建築ノート 4






さて、ここで「建築への無関心性」がいかなるものなのかを考えておきたい。通常わわわれは「家」に住んでいる(ここではワンルームマンションなどの「部屋」も「家」として見なしておく)。「家」に住んでいるにもかかわらず、「家」を常々意識しながら住むことはできない。せいぜいのところ、装飾のアレンジメントを断続的に楽しんでいたり、壁の染みや傷を発見して、修復の必要を感じたりしているだけである。つまり、われわれの日常の知覚において<建築−家−構造物>は<表層>にとって変わられている。われわれが通常注意を払っているのは、この<建築の表層>である。それは言うまでもなく<建築そのもの>を指すのではない。



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ヴァルター・ベンヤミンは周知の通り、建築を気散じの状態で観察されるものとして捉えた。これは長い間、建築家にとって挑発的なものと見なされてきた。ベンヤミンのこの主張は建築を攻撃していると受け取られ、気散じに対する敵対は、その専門性の保守にとって必要不可欠なものと考えられたのである。コーリン・ロウによる議論、建築は注意深い読解、高い緊張感によって理解されなくてはならないという議論、ベンヤミンの気散じの状態は、建築のすべてのディテール、すべての専門的技術、すべての形式的、物質的関係性を無視するものであるといった議論。(「建築へのムードのなかへ」ジェフリー・キプニス 『Anything -建築と物質/ものをめぐる諸問題』p,90  NTT出版 2007)


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「建築への無関心性」、それはベンヤミンが指摘する「気散じの状態で観察されるもの」に、近似的であると言ってよい。しかし、われわれがよりいっそう反省的な態度で「建築」を捉えようとするなら、「気散じの状態で観察する」と言うよりも、「気もむけない」し「観察しようともしない」状態において、建築を無為に放置しているだけなのだ。それは実のところ「建築へのムード」でさえない。むしろ<建築−物質>が消去されるしかない<間−マ>に近いものである。ジェフリー・キプニスは次のように続けている。


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わたしは、しかしながら、ベンヤミンの議論は何かまったく別のものだったと考える。すべての専門的技術は「気散じのムード」との関連性においてこそ最も強い力を発揮するのである。われわれがAnyにおいて展開してきたひとつの議論、物質性というテーマにおいて展開されてきた議論、それはこの注意深い読解と気散じとの間のディベート、もしくはムードに関するディベートであったと言える。(同上)



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われわれは「建築」を語ろうとするとき、趣味判断として「建築=建築のムード」をついつい主張しがちである。「私はコルビュジェサヴォア邸が好きである。なぜならその<ムード>が良いからである。」といったふうに。この現象には建築にまつわる「固有名の政治」、裏返していうと「たんなる建築」を消去する方向へと導く「政治」が潜んでいる。しかし、ここでのジェフリー・キプニスの認識は「悲観的でもなければ、楽観的でもない」と見なされるべきだろう。なぜなら、それが作家的な建築であれ、世俗的な建築であれ、「建築」は「気散じのムード」とともに存立しているからである。言い換えるなら、われわれの通常慣れ親しんでいる「家」とは「家への<非−意識>」とでも言うべき状態において、つまり、<家への意識>とは対立する状態において認識されるほかないからである。付け加えておくと、ベンヤミンの建築についての「指摘」は、ことさらに「建築家」に向けられたのではなく、「建築一般を享受する者=世俗」に向けられていた、と言ってもよいだろう。しかし、そうであるがゆえに、ベンヤミンの建築への言説は「建築家」から標的にされたのである。




「建築ノート 2」で述べた通り、柄谷行人は「建築」と「デザイン」の差異を「偶然に左右されるもの」と「論理的必然を完遂できるもの」に見いだしたあと、「建築制作にまとわりつく偶然性」の基底を「相対的な他者=規則を共有しない他者」に見いだしている。




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建築家がこうした相対的な他者との出会いからくる偶然性をまぬかれるのは、絶対的な権力を背景とする場合のみである。ある種の建築家がそれを夢想することはありうる。しかし、そのこと自体、それが現実には不可能だということを証しているのである。建築は、出来事であり、偶然的であるほかない。しかし、われわれは、プラトンが哲学を建築家の隠喩において見たことを否定するために、詩人をもってくるべきではない。それは別の「聖化」に導かれるからだ。「隠喩としての建築」を斥けるためには、たんにありふれた建築をメタファーにすればよいのだ。プラトン以来の「隠喩としての建築」が抑圧してきたのは、生成=テクストではなかった。それは「世俗的な」建築家なのである。そして、隠喩としての建築の自己充足的な形式体系を破るものは、絶対的な他者ではなく、たんに「世俗的な」他者である。(p,13)



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さきに私は「無関心性」が「建築へのムード」さえも「消去」するように働く、と指摘した。それは言うまでもなく、「建築へのムード」が「建築」および「建築技術」(専門的技術)と三位一体的にあるしかなく、それらが相補的に関係している、この「関係」に根ざしている。しかしこの「消去」は、完全には遂行されえない。私はつい1ヶ月ほど前、「建築ノート 0−1」のために次のような文章を書いていた。抜き書きしておく。



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私はドアや窓の位置についていちいち感心しない。ドアにドアノブがくっついていることの単純さや、柱が垂直に立っていることの単純さについていちいち感心しない。壁が壁であることの単純さ、天井が天井であることの単純さにもいちいち感心しない。感心しないから関心がない。しかし、「無関心性/無感心性」こそが、建築を建築成らしめているという「感じ」がする。まず、この「感じ」がいったいどこからやってくるのかを探査してみたい。




まるでありふれた部屋。それらはあまりにも単純で、親和性があり、素朴で、なおかつあまりにもそっけない。私はそれらに視線を向けたいから視線を向けるのではない。それらが「生きられる空間」を成立させているメディウム(物質−媒質)だからと言って、「生きられる空間」を意識して生きているわけではない。



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私が「建築ノート」において解明したいのは、私自身が上のようなインディフェランス(無差異−関心)な次元において、語られうる「建築一般」があるのではないかという問いであり、その「問い」のなかに「何か」が潜んでいるという直観であり、その「何か」を究明することにある。(2010−05−20)