「映画とモダニズム」についてのソフトな会話♪  その2

「映画とモダニズム」についてのソフトな会話♪  その2



●「モダニズムの定義がいっぱいあるってことは、ポスト・モダニズムの定義もいっぱいあってしかるべきなんじゃない?」


▼「しかし、どちらも底で支えているのは結局モダニズムって概念だろ?」


●「そうね。やっぱりひとつひとつ整理していかない?ちゃんと文献当たって。」


▼「そうだね。でなきゃ、いつまでたっても映画はポストモダンのままだ。」


●「あなたの悪いところはね。いつも思いこみだけで喋ってるところ。何の説得力もないわ。そんなんじゃかっこいいモダニストになりたくてもなれないわよ。」


▼「ギク・・まあそれは自分でも気づいてることで・・・それに別にモダニストになりたいわけじゃないんだけど・・」


●「それはそうと、映画を撮るって話どうなったの?」


▼「そうなんだ。それが問題なんだ。でも、モダニズム問題を解決しなきゃ、撮れないんだよな〜。」


●「なんだか、深刻ね。みんなモダニズム問題を解決できなくてもいい映画撮ってる人は撮ってるじゃないのよ。映画作りってもっと楽天的で白痴的でスピード感があって・・・」


▼「ノー天気?お祭り騒ぎ?」


●「そうね、あなたはちょっとおかしいわ。変なタイプ・・しかしどうして、モダニズム問題が気になるのよ。まあ私も美学専攻してるからこの議論には付き合ってあげるけど。わたしも勉強になりそうだし。」


▼「そうだね。忘れもしない3年前の秋・・『小津安二郎の方へ』って本があってね。その副題が<モダニズム映画試論>だったんだ。田中眞澄って人が書いてて。これを読んで小津の映画を見なおせば、映画におけるモダニズムが分かるような気がして、まずその本読んだんだけどね。それがさっぱり分かんないんだよ。ぼくはその本に怒り心頭にきてさ。まあ小津のモダニズムが<蒲田モダニズム>っていう戦前に起こった新潮流を基盤にしているってことを指摘してるんだけど、その<蒲田モダニズム>の<モダニズム>も、未規定なまま話が進められるんだ。多くの映画本で触れらている<モダニズム>ってほとんどがそうなんだよ。まいったことに。岩本憲児の『日本映画とモダニズム』もそうだったな。なんだろ、映画本におけるモダニズムは<概念>ではなくて<表象>なんだな。」


●「ふ〜ん。どうしてそうなっちゃうんだろう?」


▼「それはたんてきに・・・モダニズムって語を自明視して使っているからだと思うな。それで小津の映画見るとするだろ。ああ、これが映画におけるモダニズムか!って思っちゃうんだよな。多分みんなそうだと思うんだ。少なくとも<モダニズムっぽい>と感じちゃうんだ。けど、ぼくは何か違うと思うんだよ。そりゃ、小津安二郎の映画、その画面はさっき君が言ったように、<きっちりして><たゆまない>って感じはするよ。けど、それだけだと、何の説明にもなってないだろ?<きっちりして><たゆまない>って、ユニクロの服だってそうだよ。だからといってユニクロの服を誰もモダンだって思ってないだろ?」


●「なるへそ。そうね、しかしモダンな服といえばやっぱりクレージュかしら。しかし、ユニクロと小津なんてなんの関係もないよ〜。もっと勉強しろ〜。」


(つづく)