LOHASと白樺派



「世界を良くしようと思えば、かえって事態は悪くなる」というようなことをかつて作曲家のジョン・ケージが言っていた(『小鳥たちのために』訳 青山マミ)。




先日、自称「スロー主義者」なる目上の人物とたまたまお話をしていて、少し考えたことを記しておこう。もちろん「スロー」とは「スローライフ」とか「スローフード」の「スロー」である。エコロジースローライフ、また「地球に優しく、人に優しく」といった「共生的理想」など、皆目眼中にないぼくは、「スロー主義者」の話しを聴いていて、妙な違和感をもった。「いやあ、スローライフですか、しかしぼくの今はストップライフですな、ぜんぜん見通しがたちまへんわ。」と揶揄しながら、なにがなんでもこの人物の考え方を素直に受け入れてはいけないという際どい地点まで達していたのだ。そしてスロー主義者の主張は「LOHAS」をめぐっての話に移行した。「LOHAS」なる概念がどれほど素晴らしいのかぼくには分からない。分からないなら語るなと言われても仕方ないのだが、分からないなりに少し考えてみる。LOHASなる概念はアメリカの社会学者ポール・レイと心理学者シェリー・アンダーソンが提唱した「Lifestyles Of Health and Sustainability」の頭文字をつないだ造語で「健康や持続可能性を重視するライフスタイル」を意味するそうだ。そこで「ようするにいつまでも健康で長生きしたいってことですか?」とスロー主義者に聞くと「そうでもない」と彼女は答える。「ではどういうことなのですか?」と聞くと「LOHASスローライフという考え方はグリーピースに対するアンチテーゼみたいなものだ。」と答える。「グリーンピースやそこから派生したエコロジー運動には左翼運動の残滓が染み付いていて、それに参加している人も、団塊の世代が多く、声高に地球を守ろう、と叫ぶようなところがあった。でも今の若い人はそうじゃないでしょ。」と彼女は言った。ぼくは「左翼の流れはともかく、LOHASなんてのは、所詮ビジネスの道具なんじゃないのか?日本のメディアが金になる記号LOHASに目をつけ、頭の弱い若者をひっかけてビジネスしているだけなんじゃないのか?」というようなことを述べると、彼女は少し怒りを露呈した。それから、その場はなにか白けたものになり、LOHASどころか互いの寿命を縮めるような緊張感が走ったのだった。(その話をしていたところは世田谷の高級住宅街にあるまさにLOHASを売りにしているようなお店だった。)




エコロジーで通用しない不可抗力をLOHASで補う。名指される対象は同じ意味(地球環境を良くするという理念)であるが、差異=資本の産出要請に則り、名がさらなる意味の同一性を強化する。「かえって事態はさらに(強化されて)悪くなる」。差異化の振動(エコからロハスへの分岐または跳躍)を名指しの行為そのものが強化しているわけではない。人は名前に容易に騙される(「LOHASって何?」この一語を社会は期待している)。エコロジースローライフになり、LOHASになっても、行為はその名の準拠枠になんら委ねずとも遂行される。暫定的な理念「地球はかくあるべし」と主張する主体はいつのまにか地球の外側に立たされている。この倒錯的超越に気づかない主体が内側に向けて理念を発したとたん真理は「恒久的な真理」たらんとするかのようにオーヴァードライブする。「聞く耳を持て」と真理は耳たぶを引っ張るのだ。外側から発する声は、超越の声であり、半ばカルトの声である。この超越錯覚に気づかない幾多の耳たぶ(世間知)の信心が蔓延しつつ共同性が駆動し、相対主義(ちょっとは地球はましになったかな?)が全体主義(まだ全体的には、完全なる地球ではない)のネガ(陰画)になる。そしてさらなる地球の延命策が図られ、次の青写真が用意される。資本主義は手を変え品を変える、そして「命名の力が眼差しの構造化をもたらす」(ラカン)。この構造化に準拠しながらも意味に回収される理性は厄介である。彼らは「地球が死ぬことを知っている」わけではないし「地球が死ぬことを想像しているわけでもない。」だからと言って「気分的にエコやロハスを称揚しているわけでもない。」せいぜい、目的、意味、理念、有機的因果論の正当性の領野でイルカの大量死や禿げ山を知覚しているに過ぎない。そこでは写真を撮ったり、ビデオで記録したり、悪を想定し、悪を嘆くことだけが許されている。しかし、むしろエコロジーLOHASを主張する主体は<それ>に眼差されているというべきである。「イルカを殺したのは誰だ?」と問い、「お前か?ならばお前か?」と主体的に指をさすことはできまい。それを「怪現象」として謎に霧消させてしまうこともできまい。「地球は死んでいない。だがイルカは死んだ。」と呟きながら、主体は考えなおすしかない。「それでは一体、世界を良くしようとすればどうすればよいのか?」と。しかし、この問い自体が一方的に過ぎるのではないか?「世界が良くなったところでそれがあなたにどのような影響を及ぼすのか?」この問い方も逆行的に重要である。「あなたがLOHASに賛同し、実践したところで、それがあなたにどう影響し、どう機能するのか」と。あたりまえだが、世界がよくなったところで、人間は再び世界をダメにしてゆくかもしれないからである。部屋を掃除したところで部屋にはチリが積もる。第三世界の安価な労働力の上になりたっている先進諸国の全体性に成り立っている個々人の野蛮な暮らしをLOHASエコロジーは隠す、と言えば言いすぎだろうか。それでも、なぜか、野蛮人はイルカの大量死を知覚できる機会を持つ。正のフィードバックが負のフィードバックに反転する。(そして世田谷からの帰り道、高級住宅街にところどころ鮮明に浮き立つ派手なスプレー落書きを見て、それが、いつもとは違って妙になまなましく、リアルに眼に映ったことを告白しておこう。)





古代人のほとんどは分裂症だったと(いうようなことを)中井久夫は言っていた。(『分裂病と人類』)。とりもなおさず歴史はあるのだ。だが、性急に哲学を精神分析に矮小化してはならないし、精神分析を自我心理学に矮小化してはならないだろう。地球も世界も同様であり、それらを解釈せず、矮小化せず、自我に回収せず、まずはそのものを見なくてはならない。そのものを見る、このあたりまえだが誰もがそれに失敗するだろう行為こそが「現実を変えることはできない、だが、現実のイメージを変えることはできる」、この可能性を導入してくれるのではないか。加工的想像力を酷使できる次元を内在化し、はじめて世界を見つめるアングルをズラすことができる。そのものを見ない限り真の想像力は発動しない。ケージやゴダールがそうしたように、そのものの音、そのものの映像を相手にしない限り。地球を分析する主体は、超越者ではない。地球にメスを入れる外科医も超越者ではない。具体的な内なる他者なのである。それはありふれたものだ。このありふれた内なる他者をまずは直視しよう。





もうひとつ、LOHASが本質的にコミュカティヴな運動だとすれば、かつて武者小路実篤(を中心にした「白樺派」)が目指したような「新しき村」を目指すべきではないか?それは18世紀の社会思想家シャルル・フーリエ(1772−1837)の提唱した「ファランジュ」ほどには体系化されていないにせよ(『四運動、および一般的運命の理論』を参照のこと)、仕事と芸術活動を両立させるというコンセプトに基づいて現在なおも埼玉県入間郡に存続しているというのだから、その息の長さに驚くほかない。武者小路実篤の提唱した「新しき村」のコンセプトは「人生訓」のごとき説法(『白樺』1918年6月号)以上のものではないが、LOHASスローライフというイメージ主義的な「共生」からはかけはなれた「実践」あるいは「実験」なのである。