「思う」について

いずれにしても「思う」という述語表記が、主語を征服している。「私」を収束させ「私」を決定づける「思う」。論理的な思考はその論理によって閉じているが、「思う」に束ねられることによって出現する「私」は「思う」から見出された事後的な「像」へと主体を送り返す。「主体像」が「思う」によって構成され、他者に想定された「主体像」が自己へと再帰的に更迭されることによってかろうじて維持される「私」。「私は・・と思う」「ぼくは・・・と思う」。その「いくぶん曖昧な<言>の閉じ方」の場所では「他人にとってはそんなこと知らないよ。」あるいは「他人は他人」「私は私」といった退屈な同語反復が幅を効かせはじめ、その先取りされた(つまり、想像された)他者の批判を想像的に解消し、あらかじめ拒否するような態度を「私は・・・と思う」という言明自らのうちに提示してしまう。「私は・・・と思う」を無限に甘えさせる「私は・・・と思う」。ちょっと自己反省。