むずかしい。


『いきの構造』(1930)で知られる思想家の九鬼周造(1888−1941)は、ある寒い晩、京都四条通りの茶店に入り、給士の少女に「紅茶とビスケットをいただけますか?」と注文した。少女は「ビスケットってクッキーのことですか?」と訊いた。そこで九鬼は「クッキーなら貰わないからこちらからあげるよ。」とギャグをかました。しかし九鬼はギャグをかましつつも、内心グキッとした。なぜなら「ビスケット」という名称が「クッキー」という名称に取ってかわられた事に驚きを禁じえなかったからである。驚きは、九鬼の住んでいる古い世界と少女の住んでいる新しい世界との間隙がもたらした。九鬼周造はこれを「クキがクッキーでグキっとした」話として随筆の中で紹介している(「偶然の生んだ駄洒落」全集5所収)。もうひとつ同じ随筆の中で「アマノがアマゴとアナゴを間違えた」話をも紹介している。分かり易く会話形式に変えてみよう。



和辻哲郎「おい、アマノ、西田先生にアマゴでも食べに行きませんかと誘ってこい!」
アマノ「はい。」
・・・・・・・・
アマノ「先生、アナゴを食べに貴船にでも遠足に行きませんか?」
西田幾多郎「アナゴのような脂っこいものはいやだ。」
・・・・・・・・
和辻哲郎「どうだった?先生も来るってか?」
アマノ「西田先生はアナゴのような脂っこいものはいやだってよ。」
和辻哲郎「ばか、アナゴじゃなくて、アマゴだ。」
アマノ「(関東育ちのぼくはアナゴは知っているけど、アマゴは知らないよ・・・)」


注目すべきは、九鬼周造が二つの偶然の生んだ駄洒落を並置して、「クキがクッキーでグキッとした」とは言いやすいが「アマノがアマゴとアナゴを間違えた」と言おうとすると口が廻らないので多少の努力を要すると指摘していることである。そして、その原因として「前者は同一性に基づくものとして単に量的関係に還元され得る」のに反して、「後者は類似性の基礎に質的関係を予想しているためであろう」と分析している。

くだらない駄洒落にもそれなりの分析方法がある。しかし、九鬼周造が言うところの、ダジャラれた単語の寄せ集めとしての構文の<同一性/類似性>の差異は感覚的に捉えられるとしても、<量的関係/質的関係>の差異となると、どうも捉えがたい。アナロジカルに喩えれば、前者が「ロック」で後者が「ミニマルテクノ」になるだろうか。前者が「一回性の拍の強調」で後者が「反復的リズムの強調」?しかし、なぜ前者が「質」をもたらし後者が「量」をもたらすのか??<拍の一撃→拡散→量>のモードと<リズムの反復→収縮→質>のモードとの差異??むずかしいところだ。