「IMAGE」と呼ばれる対象についての唯一の回答へのヒント その6

(イメージの論理的発生を考察するためのひとつの例証)





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まずは以下を見ていただきたい。


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http://www.k-tower.jp/
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これは、誰が見てもそう捉えるように「THE KOSUGI TOWER」の広告であり、広告のフレームである。コピーライターのセンスといい、中山美穂の画像の冗長な羅列といい、最後の駄洒落のベタさ加減といい、あまりセンスのいいものとは思えないが、注意すべき箇所が一点だけある。それは画像フレームの右下にさりげなく出現する「実際に中山美穂さんからメールが届くわけではありません」というキャプション(言語)が挿入されていることである。なぜ、それが注意を促すのか?おそらくフラッシュというソフトで作られたのであろう、携帯電話の表象に誰がどう考えても「実際に中山美穂からメールがくるわけがない」からである。より穿った見方をしても、私(あるいはあなた)が使っている携帯電話に中山美穂さんからメールが届くわけではないし、<THE KOSUGI TOWER>の営業のために中山美穂からメールが届くことはまず考えられないからである。「携帯電話の表象と実際の携帯電話」、ここには「月とチューインガム」ほどにかけはなれた位相の違いがある。事物(実際の携帯電話)と表象(デスクトップ上の携帯電話の表象)の存在論的な位相の混乱を導入しつつ、この一文「実際に中山美穂さんからメールが届くわけではありません」の「虚構的現実」(fictional reality)を、それ自体において意識的に説明しているのだ。しかし、さらに注意しなければならないのは、この一文によって「実際に中山美穂からメールがくる」という「事」(「物」ではなく「事」)を「イメージできる」という、その可変性(変換可能性)を同時的に出現させるということである。この次元において「表象は像を通じてイメージを出現させる」という定式を立てることができる。表象とは、誰が見ても確かなように、「それが携帯電話である」ということを明示できる「閉じられた文=メモ14に従うならば<判決文>」である。像とは弁証法的に確定される「線(ここでは携帯電話を描こうとして描かれた線)や色(水色)」の集合である。この表象の同一性と像の同一性が保証されることなしに、<イメージ>を出現させることはできない。そしてこの「出現」という<出来事性>において、事物と像と表象とイメージの連続性がはじめて確認できるのであり、<事物>と<像>と<表象>の論理的フレームの内部においてはじめて出現する<イメージ>が確認されうる。(analogyは極めてlogicalに発動される)





(付記)
上の考察では、まだ不十分な点がある。それは広告の後半に出現する「中山美穂」の像の解明である。<像=言語>という等式の明証性を前提に、哲学(像の理論=picture theory)を行った前期ウィトゲンシュタインはその著書『論理哲学論考』において次のように述べている。「<この像>という表現は、この場合すでに、ある拡張された意味をもっている。この像という概念を私は二つの方面から受け継いだ。第一に描かれた像から。そして第二に既に一般的な概念になっているところの、数学者の意味する像からである。画家なら像[bild]という表現を用いないところでも、数学者は写像[abbildung]について語るのであるから」。―――「中山美穂」の像は、(それが静止画の連続であるにもかかわらず)動的な何かである。この広告像を特徴づける「メジャーな像」であり、一定の纏まりをもたせる何かである。そこでウィトゲンシュタインの言う「この像」が「中山美穂の像」に対応するとすれば、像を解明する際に「画家」の態度と「数学者」の態度の差異が現れることになる。「画家」にとって、それがうんざりするほど自明な何かであり、それを像といったり、イメージと言ったりすることさえ憚られるような何か(たんに描かれたモノ)であっても、数学者にとっては、理路整然とした論理的な帰結であり、あたかもそこに数学的な正当性(解)を見つけだしたくなるような何かなのである。