『リュック・フェラーリ ある抽象的リアリストの肖像』


疑問を持つ、「それにしても、なぜ、ぼくはこんな他愛もない日記みたいなのを飽きもせず、たらたらと書き連ねているのだろうか」と。誰に読まれているのかは、さて知れず、どう思われているのかも知りえず、とりたてて知ろうともせず、ことさら人にすすめるのでもなく、日記というのもおろかな雑念を散らし続けている。なぜか?それがたとえ雑念に過ぎないとしても、「交換」を諦め切れないからだろう。今のぼくにとって「交換」が放棄されたときに待っているのは、ほとんど「即死」に近い(と言えばおおげさかつ、うさんくさいか)。もっと「切断」と「再構築」の準備に集中すべきなのに、そう思いつつも、たらたらとみだらに書きつらねることを止めることができない。ブログ、もっと簡単な見方もある。コストがかからない。まったく自分とは関係ない人の生活を見せ付けられて楽しい。(「アホか」と思われるかもしれないが)逆に人から生活を覗かれてるんじゃないかと思うのも、楽しくないわけではない。世界との距離が生まれる。人との接触の意味も大きく変わる。ブログには、個人日記以上のニュアンスが含意されている。ニュアンス、それは、ブログを書く主体像を構成するパズルのワン・ピース(一つの断片)のこわれやすさ、喪われやすさである、そのピース(断片)でさえも、次々に差し替えられていく、とても足場の弱いニュアンスのようである。(しかし、そもそも言葉が交換されることは、同時にこちらの足場を崩壊させてくれるような大文字の他者を待機することでもあったわけだが)。しかしブログには、アナーキックな可能性を孕んだ無茶苦茶な要素もあると思われる。(とはいえぼくは、ブログを全面的に礼賛しているわけではない)・・・以下は、昨夜、雑踏の中の小さな暗箱の中で見た46分の映画の素朴な感想である。






気軽に「ブログ・ムーヴィー」と呼んでもかまわないだろうか、『リュック・フェラーリ ある抽象的リアリストの肖像』(2005)はブログのような映画だったと言えば、作者、宮岡秀行くんに失礼だろうか。ここに映されているのは、フェラーリの生活の断片でしかない。ことさらにその日付や出来事性を主張するのでもない。(何月何日にかくかくしかじかが、起こった・・・この日付記述の形式は「近代的な意味」においては日記やブログの形式を支えもつ以上に、むしろジャーナリズムを支える形式であろう)。老年にたっしたある作曲家の生活の一断面、そこになんの解釈や意味を付け加えるのでもなく、たんたんと画面が眼差しを通過してゆく。フェラーリによる、<作者=カメラ>を媒介にした音楽に対する啓蒙が召喚されるわけでもない。彼と彼の周囲をただ、じっと見ること、それ以上のことを提示しないある種の<留保>をまずは強制されていること、これに気づかねば、この映画をまずもって「見た」ことにはならないだろう。じっと見るに留めていることをまさに見ること。「そのものを見させる」作為にそのまま嵌ること。そう、ここに待っているのは、「まるで退屈な光景」ではないだろうか。そして、そもそもわれわれの周囲を取り巻いているのは「まるで退屈な光景」にしか過ぎない、この事実の退屈さに気づかねばならないのだとこの映画は教えてくれる。







この地点から真に「見る」ことが出発する。画家の高橋由一(1828〜1894)や、熊谷守一(1880〜1977)がまさに「対象を見すぎてしまい、しまいには主体を分裂させながら」他愛もない物質、「とうふ」や「猫」を描きつづけたように、われわれは『リュック・フェラーリ ある抽象的リアリストの肖像』を見ながら「見る」相貌が分裂し、変成するということを学ばねばならない。 








物質を語るのではなく、物質に語らせること。物質に語らせる以上の「語り」を要請し、内面化しないこと。アンダース・エドストロームのカメラはフェラ−リの家の内部を映す。そして庭、庭には木が植えてある。その木にはコンパクト・ディスクが吊るしてある。それは少なくともゴミを漁るカラスの来襲を阻止するためだけに吊るされたものではない。だからと言って、フルクサス(パイク)的なオブジェ(美的対象)でもない。われわれはその光に気づくだけでよい。外の風に揺れたディスクの反射光(偶然性の空間的導入)が建築物の内部の壁にガラスを通過したままに照らし出していること、それが意識的なものであれ無意識的なものであれ、時には彼自身の、つまりフェラーリの網膜にまでふと通過する光の一瞬の、環境としての「プンクトゥム」(バルト)との関わりあいが彼自身の作曲生活においての捉えがたくも重要な一断面なのだと、この端的な事実に気づくだけでよい。そして家のリヴィングルームでいくぶん楽しいパーティーが催されている最中でも、彼は決してその光を忘れないだろう。というのも、彼が妻に向かって呟く「ぼくは街のなかでも君の靴音を聞き分けられるよ」というささいな発話は、「瞬間的に外部から賭けられた像=ちょっとしたディスクの反射光」でさえも「見逃さないぞ」という所与の知覚面に対する意識付け(動機)とかかわっているから、そこに彼と世界との創作上の関わり方=信念を確認できるからである。その信念を感受しつつ、さらにスクリーンに映される端的な事実の連なりにきっちり目配せすることから、まさに「抽象的リアリストとしてのフェラーリ」の、その肖像を構成するパズルのワン・ピースがわれわれの前に提示されるだろう。








しかし、人はがっかりするかもしれない。「これが映画なのか」と。だが、ぼくは思う。この作品(いや、すべての映像/音響作品)を映画にするのは「われわれの方」なのだと。つまり、この作品が(いったいぜんたい何に準拠してそれを呟くのかはさておき)「ズームを使いすぎている」とか「フェラーリの何を描いているのか」とか「彼がぜんぜん音楽のことを語っていない」とか幾多の「文句」(反省的な判断の欠如)を言っても、何も始まらないのだ。(自分のかってきままな願望をスクリーンに投影している、ないものねだりしているに過ぎない)なぜなら『リュック・フェラーリ ある抽象的リアリストの肖像』はそのタイトルが示すように抽象的(アブストラクト)であり、かつ現実的(リアリスティック)なのだから。退屈はどこにでもある。だが、退屈を退屈として物質的に味わい、主体的に加工する<能力=技術>もどこにでも見出される。フェラーリは、まばゆい外の光を浴びながら音を採取する。ありふれた音を。だが、ありふれた音が、どれだけありふれていても、その音の輪郭を保持しつつ、当の音をより興味深いものに仕立て上げる所作(想像力の余地にめがけての行使)は残されてしかるべきものだ。そして冒頭のフェラーリの声「ありがとう」(君に感謝するよ・・・「Thank you」)の加工的残響はこの世に偏在する退屈に対する感謝をも示している。そして、少なくともフェラーリはエキセントリストではない。だからといって退屈を享楽しているわけでもない。46分はこの事実を端的に示している。