「IMAGE」と呼ばれる対象についての唯一の回答へのヒント その2


(主に記憶の序列化について)



こちらにやってきてはあっという間に逃げ去るスズメをじっくりと知覚するのには難渋を極める。反−象徴的な事物としてのスズメ。「スズメ=アレゴリー、孔雀=シンボル」。また、スズメの存在論的位相には、視覚像世界における「対象α‐知覚の穴」(ラカン)と張り合えるような徴がついている。美的な隠喩化からも逃れ、鈍重な意味からも逃れるスズメの足どり。(Fort-da的な運動世界)



巨大な交差点での歩行中、群集の波から、ふと一つの顔を自然に知覚してしまった時、「それまでは決して思い出さなかった人物を突然思い出すことがある」というケースに巻き込まれる場合がある。非活動的な記憶領域においてであれ、活動的な記憶領域においてであれ、偶然、外部から賭けられた像が、知覚対象を記憶領域にトレースするケースである。



系列的な記憶と非‐系列的な記憶がある。また両者が両者をして分離を促す形式にこそ、思い出される事象、つまり想起対象の限定性は関わっている。(このメモの後半部は「像の確率論的イデオロギー論」へとシフトできる)



系列的な記憶と非‐系列的な記憶、両者の統合と分裂の繰り返し。この反復的な営みこそが、記憶内容そのものと、記憶への書き込みプロセス自体を複雑化してゆく。



記憶の複雑性の表出は、その人を病者(狂人)に変えるのだろうか。だからこそ、表象される以前の記憶(原‐表象)もまた結ばれるべき像(心像の時間化)であってしかるべきなのか。つまり、他者の呼びかけにおいて記憶は分節された<言語=被交換像>として応答されてしかるべきなのか。



<世界=散文性>の無定形さと<記憶=複雑性>の無定形さの対応関係、この対応を単一の答え(例えば「世界平和」のような理念)として統御し、「世界」の側に回収しようとした場合(ある種のハリウッド映画における専制=世界代行装置)に、隠蔽される<マイナーな記憶/マイナーな像>。



「主体に結ばれた世界−像」が手前に表象としてある以上、その表象が「助動詞」として「モーション」や「行動の動機」(つまり「動詞」)を征服する場面を否定することはできない。「精神のエネルギー」「生の跳躍」(ベルクソン)は「動きの様式」を伴って記憶を序列化へと導く。行動にとって消尽されるべき記憶、消費されるべき記憶が備蓄され、主体に回付された記憶領域の系列を組み替え、交配させ、序列化してゆく。これは真か?あるいはこの問題の立てかたは正しいか?