大矢真梨子個展

http://www.punctum.jp/ohyamariko.html










今回は、写真の評論家でもなんでもない私が失礼ながら「なぜ大矢真梨子の写真は素晴らしい」かをざっくばらんに記しておこう。2006年、あちこち出歩く中、もっとも感銘を受けたのは京橋のギャラリープンクトゥムで行われていた「大矢真梨子個展」だった。大矢真梨子は弱冠23歳であるが、多くの才能を秘めていると思わせるに足る写真を撮っている。




さて、その諸作品に通じるのは、「ガラス」という物質に対する執念的とも思えるこだわりであろう。ブティックのショーウィンドウ、つまりガラスという物質が不可避的に持っている「反射」という特性をここまで生かしきった作品にはそうそう遭遇することはできない。では、彼女が撮った作品は具体的にどこが素晴らしいのか。それを書き記す前に歴史的に参照しておくべき写真がひとつある。




19世紀末、「人間」という形象を極力避けつつ、パリの閑散とした町並みを撮り続けたウジューヌ・アジェの写真にショーウィンドウ越しに見えるマヌカンとガラス窓に反射する光源を上手く捉え、遠近法という自明の視覚装置を撹乱させた陰影の富んだモノクローム写真がある(それはパリのシュールレアリストたちがもっとも好んだ写真でもあった)。ショーウィンドウという物質をリテラルに捉えると、それは客寄せ道具であると同時に客を鑑賞者に仕立てあげることによって店に入るという行為を予め無効化している「両義的な装置」として捉えられるだろう。




むろん、ショーウィンドウとは、通俗的な商業装置と言えばそれまでである。しかし商品と身体を距離化させることによってそれを眼差す者を瞬時に鑑賞者にしたてあげ、より購買意欲を促進させもするが、同時に「手の届かないモノ」として特権化される、「店に入る」という行為をどこかしら躊躇させるような「いじわるなメディウム」でもあることを否定することはできないのではないか(ゆえにショーウィンドウは商業装置から離れたそれ自体に自律性のあるモノである)。その自律性とはガラスという物質なしにはありえないのだが、ガラスの発明とその応用は誰もが指摘するように狭義の「モダニズム」と無関係ではありえない。そして精神分析ジャック・ラカンのおなじみの図式を借りていえば「ガラス=現実界」と「商品=象徴界」とそのふたつを同時に知覚せざるを得ない「鑑賞者=想像界」という三位一体を瞬時に実現させる「近代的な装置」であると言える。




さて、彼女の写真に話を戻そう。「ガラス=現実界」「商品=象徴界」「鑑賞者=想像界」という図式はあまりにも安易であるとしても、その三つを捉える第四の視点としての撮影者(後期ラカンが<サントームー兆候>として定式化ものに近いのだろうか)はいったいどこに属すのか。そして撮影者は何を見るよう余儀なくされるのか。大矢真梨子が考え抜いたのは「写真を撮る」という行為が不可避的に孕む暴力、つまりカメラを持って、シャッターを切るとそのフレームの全容に何かが映って(写って)しまうという根源性、その宿命である(ショーウィンドウはその根源性にある種の明晰さを与えるために用意された、いわば器である)。上記の三界は、「象徴界=人間」を扱っただけの多くの写真を「写真」として粘着的に流通させている(HIROMIXから蜷川実花まで)通俗性の外部にあるリアリティー、その根源性を刻むために用意されてしかるべきものだ。




さて、作品のひとつにショーウィンドウのガラスに車のテールランプの周囲がチーズをざっくり切ったような形象で反射している(写りこんでいる)ものがある。それを見たものはフォトショップか何かで加工したかのような「人為性」をすぐさま見取ってしまうだろう。しかし、ショーウィンドウの外の世界で起こっている万象のほんの細部がある特定の形をもって写りこんでしまうという現実を彼女は徹底的な自然主義的態度において記録しているだけなのだ。そういう意味で近年コンピュータテクノロジーによって可能になった「像の二重性」(ディゾルヴ、オーヴァーラップ)の人為的実現を思考するには、まずモダニズムの表象を用意した「ガラス」という物質の思考なしにはありえないだろう。





彼女の写真に「都会的、ハイセンス」などの美辞は必要はないし、イリュージョナルな形容も必要はない。見るべきものはただひとつ、近代が用意した、あるいは近代を用意したショーウィンドウ=ガラスという物質を知覚するその不安定さ、揺らぎである。近代は局所において物質的に続行しているのだ。











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以下の動画は1984年あたり、ソニービデオカセットテープのCMに使用されたビデオクリップである。ショーウィンドウにわずかに映る自己像(鏡という物質とは違ったそれ)を無意識に内面化すること、これがアメリカ式の資本主義とガラスの関係項であるように思える。大矢真梨子が記録したようなカメラに写らざるを得ない像(ロラン・バルトなら、それをプンクトゥムと呼んだのだろうか)を無効にするには自己像と商品を一致させるだけでよい。そこに物質的不安を主体的ロマン主義に回収する資本主義的な仕組みが発現する。