スプーンを曲げることの始まり






先日井土紀州大杉重男他数名と呑む機会があった。大勢で集まることは稀なので身体に失調が起こることに気づく。身体動作がどうしても鈍くなる居酒屋の個室という空間でそれが抑圧されるのと平行して(?)話が交差して止まなかったのだが、中でもトピックとして面白かったのは日本国内で「エスパー」や「超常現象」がメディアを通じて一般化されだしたのが<政治の季節>を通過してから、つまり70年代中期からだという仮説であった(井土仮説)。私も子供の頃にテレビを通じて「スプーン曲げ」や「未確認飛行物体(UFO)」の映像を見たことを朧げに覚えているが、それは小学生の男子生徒たちにとって欠かせない話題でもあった。インベーダーゲームの出現前夜のあたりだったろうか。ユリ・ゲラーエスパー界を代表する人物としてテレビメディアに祭り上げられ、子供たちも学校にスプーンを持ってきてはスプーン曲げに興じたという変な時期が確実にあったのだ。(この70年代中期における超常現象の一般化は狭義の神秘主義とはまったく位相を別にしたものと捉えなければならない。)




そして、後日私は次のような仮説を立てた。日本人の頭の中に「映像」という観念が真にあらわれたのは70年代中期なのではないだろうか?と。そして映像観念の出現はビデオ・テクノロジーの出現によって可能になったのではないだろうか?と。かつてはテレビドラマやニュースソースさえ16ミリフィルムで撮っていたのだが、ワンロール3分弱しか回せないそれは、スプーンが曲がるその瞬間を捉えるには不適切かつ不可能だと思える。しかしビデオカメラは長時間テープを回せることによってスプーンが曲がるという出来事をじっくりと「待つ」ことができる。加えて、「リアルタイム=生中継」というテクノロジーが「待つ」という行為の実態の正当性を裏打ちしている。




井土仮説の重要なポイントは「超常現象」が「政治の挫折」とともに始まった、これであろう。しかし、これだけではもの足りない。「超常現象」は「フィルムの挫折」とともに始まったとも言うべきである。そして「映像の観念」があらわれた、その因果として、映像は「見る」ものであると同時に「疑うべきもの」として流通し始めた(大衆化された)、この視点も忘れてはならないだろう。