水の女

超越性の希求を映像表現に求める時、演出は「人に上を向いてもらう」こと、その作為を選ぶことがある。古い映画だが中上健次脚本、柳町光男監督の『火まつり』は北大路欣也の鍛えられた腕を大木に巻きつかせ、天空を仰がせることによって、のちの惨殺へのゆるやかな過程を予感させる、その先取りされた未来をたっぷりと孕んだ兆候として表出させるのに成功していた。いかにも野暮ではあるが『水の女』という2002年の長編日本映画は、中上健次の同名短編小説『水の女』にインスパイアされた映画だ、という臆見がなかったわけではない。例えばUA演じる清水涼が富士を間近に仰ぐことのできる山間のトンネルの内部で強姦されるシーン(強姦、といっても清水涼の抵抗は映されていないのだが)、演出はまず火というよりも灯を見せる。その灯は強姦を行使する男、浅野忠信演じる宮澤優作がトンネルの闇中にぽつねんと置かれた水子地蔵の前にある。だが、宮澤のか細い指によって灯に数本の木枝をそそがれた灯から火へと生成変化をこうむった女を照らす道具が地面に落下し、繰り返される男根と女陰の間歇運動の最中に宮澤のズボン(いまじ、ズボンと言うのもアナクロニズムではあるが、敢えてそう言っておく)の裾に引火し、事が休止の強制に見舞われるとともに、宮澤がずるずるとズボンを上げ、二人はある種の<気まずさ−青臭さ−若さ>を引き受ける。あるいは清水涼が生業としている銭湯での湯気立つ裸体のなまめかしい男女老若、子を孕んだ丸い腹から、背中に桜吹雪を刻んだヤクザ者、つかいものにならなくなった老婆の垂れた乳房、毛の生えぬつるつるした幼児のペニスなどが「銭湯が廃れりゃ、人情も廃る」と、しわがれた声で謡う浪曲をバックにえんえんと映されるシーン、これらのシーンは<中上的でさえある>とぼくには思えた。

だが、『水の女』はその総体としては少しも中上的ではない。なぜなら超越性への希求が少しも即物的に写されていないからである。物を目指す(directする)アングルがおおむね同軸上の稜線からズラされるもしかし、映画の前半、清水涼が不意に木漏れ日に誘われて森の中をさ迷うシーン、そして超越性への希求の表現、その紋切り型として天空を仰ぎ、お約束のように雨が降るシーンは、フレームの同心円的な構図(象徴性)をつくるのに、効果的なレンズを使用している。そこでは切り裂かれるべきいま、ここにいる神を<前に>火花を散らさんとする私ではなく、オリエンタライズされたユング曼荼羅観に落着した安穏とした「私」の一見おくゆかしい、だが倒錯的にいばりちらした「超越」が描かれる。『火まつり』で北大路欣也が大樹をだしぬけに抱いて予見すべきではなかった、だが、たまたま即物的に、そうすることによってしか、惨殺の決意を固めることができなかった名づけえぬ何か、つまり悲劇の意識に裏打ちされた神学の視線(中上健次が言うなれば「ギリシア悲劇のファルスの舞台としての世界への視線」)が『水の女』には欠落している。

ラストシーン(いやな言葉だ)にすべてが判る。宮澤優作が自ら引き起こした事件(銭湯の常連客である警察官が脱衣所にはってくれと持参したポスターに「連続放火魔」の小さな文字が確認できる)の逃亡所として選んだ銭湯兼家屋、その薄暗い台所で宮本が食べ残したゆで卵ふたつをはじめ、ひととおりの無常感が画面を満たした時、宮澤は自身の引き起こした事件の意味を、それを最初から意味なきこととして、つまり、無意味の形而の一切を問うことなくあっけらかんと死を選ぶ。宮本がかつて見た銭湯の煙突の内部、その闇に一条の光が貫入する。ピンホールからの光の束、このキネマトグラフ、というよりもカメラ・オブスクーラの原理の近似空間とともに、一切の重力をシニカルに、シアトリカルに笑い飛ばすようにあっさりと身を投げるのである。

それにしても作者は「法要」と「抱擁」をかけた、言葉遊びをしたつもりなのだろうか?UA演じる清水涼は愛人とも恋人ともいえぬ、たんに抱き、抱かれるに任せた男−宮澤優作の投身自殺のあと、ついに画面に現れることはない。ただ、煙突の最下部、薪を入れるその牢にさかさまになった宮澤の顔写真が貼り付けてあるばかりだ。