京都にて 1

ありふれた、だが名前さえ知らぬ凡俗な観葉植物に隠れた小窓から差し込む光の束が、ぼくのコーヒーカップから上昇する熱粒子と灰皿に停止する1本のタバコの先からまっすぐに上昇する煙の複雑きわまりない流線形をくっきりと浮きたたせている。


ぼくはひざを組みかえる。すると空気に一瞬の揺らぎが導入され、微粒子たちが即座に反応するさまに純粋物理のなまなましさを思い出し、ここが京都という名を持ち、その名に過剰な意味を付加させられる、そういった一般性を堅固に更新させている、またはさせられている小都市であることを自覚する。


匿名の靴音がうっすらと聞こえる。だが、地元の人間のそれなのか、観光客のそれなのかは、判別できない。皆よ。盆人よ。凡人なりに盆人たれ。キョート、マイ・マザー・プレイスは今日もそう告げている。出る杭は打たれ、出すぎた杭は無視される。


昨日は、ゴキブリも同然、かつて昼過ぎまで呑んだくれた小汚い店で、久しぶりに昼前まで呑んだくれた。丑三つ時をやや過ぎたあたりに、かつて腹を抱えてよく笑った友人と会う。偶然でもなく、必然でもない。ここで会えることは分かっている。約束なき約束。それはとてもステキなことだ。


だが、悪い報せを聞いた。左手でくらった即興のビンタで茶番劇は繰り返され、笑う暇なく、悲しむ暇なく、ゴキブリどもは這いずりまわる。だから悪事千里を走れ。暴走し粉々になれ。粉々になった粉末、それがゴキブリの餌ならば、ぼくたちは喜んで存分、食い気を催さないわけではない。


モリヤマは死んだ。それも自殺だというのだ。おそらく30手前か過ぎたあたりの青年だ。ブロンド・オン・ブロンドのレコジャケのボブ・ディランに酷似している、奥歯から構成する筋肉がその骨相を特徴づけているような、しっかりとした顔立ちの青年。首を吊ったという。恐ろしい事だ。だが、私はここに書きつけよう。そして思い出し、忘れよう。


ガスパー・・フリードリッヒ・・、正確な名前は失念してしまったが、ヴィム・ヴェンダースエドワード・ホッパーともに愛したドイツ・ロマン派の画家のことを彼はよく話してくれた。そして「裏地」という私の小品に出演してくれた。ある年の冬、彼の部屋に一度だけ行ったことがある。そこにはよく磨かれたフェンダーの黒いテレキャスター(ギター)と、ユリシーズ(ジェイムス・ジョイス)の原著だけがあった。ほんとうにそれだけしかなかった。私はそれをかっこいいと思った。たったそれだけしかないない部屋を。


モリヤマよ。例えばあの羊雲に乗ってゆけ。君を構成した島根の粉雪。粉雪のような島根の女たちに帰ってゆけ。