ビッグ・ファット・ママ




■昨日会った男はつい2週間前に新宿で突然泣いたとぼくに告げた。そして自分でもおかしいと思い当たって精神科に見てもらったという。街中で突然泣く、という経験はぼくにはないので涙腺がゆるんだ瞬間までの連続性と外気のある世界にいかなる関係性(目に何を映しながら何を想起していたか、どんな匂いがしていたか、とかミクロな繋がり)があったのかは知る由もないし「そういうことってあるよなー」と気軽に言える立場にはいない。でも、「外で突然泣く」のがなぜ「自分はおかしい」という判断を促し「精神科に見てもらう」という行動に出るのかと言うと、おそらく「外で/突然/泣く」という帰結節において「突然」という飛躍を身体的にそれとして認めたためだろう。また「外で突然泣く」という経験が経験と呼ぶに足る出来事なのであれば、「経験の条件」が必ず(彼が突然泣いた)背景にあるにちがいない。その「経験の条件」を自分で探すことをせずに精神科医に委ねているだけなのではないか?と、ちょっと言いたくなったので書いときます。記憶には飛躍があるし、ゆえに身体にも飛躍がある(そして飛躍はいつもランダム、かつアクシデンタルだ)。五感はそれを条件づけている。「心の病ってそんな単純なものやないぞ」と言われそうだが、それでも書いときます。







■二日酔い頭をひきづってから事務所で打ち合わせ。もうたまらん。とうとう悪魔に血を売っているな、というどうしようもなさ。「悪魔に血を」というありふれたメタファーにえらくリアリティーを感じた。ぼくは善人ではないし、性格も悪い。だが悪魔ではない。そのことを一気に突きとめられたような気がしてならなかった。事務所をあとにし、「毒は皿まで食べますけど薬も皿まで食べますよ」、と胸中で念仏のようにぼそぼそ云い、錯雑とした通りを抜け、渋谷の歩道橋の上でビールを呑んで気を紛らわす。Oさんっていう京都のゲイカルチャークラブにいはった人のまぼろしみたいな極薄なゴーストをまぶたの上のほうに幽かに見た。Oさんがいる場所はたぶんクック・ア・フープという薄暗い店。赤いマフラーを巻いた彼は細い小指を立てていた。






キンクスのライヴ・ソース『ライヴ・アット・ケルヴィン・ホール』(1968)の『サニー・アフタヌーン』。何回聴いても中盤の「ビッグ・ファット・ママ」というフレーズだけがやけに耳につく。観客の女の子たちの叫び声。真剣に叫んでいる。この時、泣き叫んでいた女の子たちはもう、今ではずいぶん年取ったんやろうな。しかし、レイ・デイヴィスよ、ビッグ・ファット・ママは、どのくらい大きくて、太っていて、どんな服を、どんな色の服を着ているのか。爪はちゃんと切っているのか?髪は結っているのか?立っているのがしんどくて椅子に座っているのか?額に汗はかいているのか?首にタオルを巻いているのか?化粧はしているのか?教えてほしい。歌詞の単語は冒頭のタックスマン(税金取りたて人)とビッグ・ファット・ママしか分からない。ああ、サニー・・・サニー・・・アフタヌーン。これまた名曲『シッティング・イン・ザ・ミディー・サン』の裏面的歌詞だったか。ウォータールーは自殺の名所だったか。