9/11付の日記で触れた「きれいな娘さん」らしき人物がたまたまテレビ画面に現れたので、一応目を通す。(というよりも画面が目を通る)。どうやら『東京湾景』という日韓関係を扱ったドラマの最終回らしい。ことごとくイメージ回収的であり、とりたてて何も言うことはない。
いまさらの「文化人類学」、それを流用しつつ組み立てる「家族イデオロギー」、「俗情との結託」ををやるのに別だん腹を立てるわけでもないが、それらのいっさいがっさいを統括する「脱崇高的な美、ないし、センチメント」を顕揚するのはいかにもヤボったい。

テレビの特性にあげられるのはチャンネル(霊媒)の保存様式であり、別の世界と知覚者のこの世界との連続性を「儀礼性」を通じて媒介する、その変換性の複数性、その強さにある。チャンネルという垂直的な複数の系列に対するフレームの一個性は、テレビのフレームの脆弱さを暴きたてる。反映はいたって水平的に展開され、リモート・コントローラー(遠隔操作)によるザッピングの能動性(身体の遅れをその速さに一時的に回収してくれる)はテレビを「乗り物」のアナロジーに変えてもくれるが、何でも通過させる空虚な穴=チャンネルは滞留する<確定しえない像>に充填されはじめる。像が今、ここで確定しえない、つまり「テレビを見る」(遠くを見る・・tele-vision)という事態が始まる時だ。


それでも、何にでも代入可能な像を通過させるチャンネルという空虚な穴(霊媒者)をテレビそれ自体はいかにして維持(メインテナンス)しているのだろうか?


確率論的対象、例えば、間接的ポルノ的要素、みのもんたの肌光=艶的要素、過剰な色彩による撹乱、効果的音響によるセンチメントの惹起など、つまり、オートノミカルに人間の知覚を通じて無意識裡に滞留させる対象=フェティッシュを充填することによって、空虚な穴は維持されるのである。


変換可能な(限定された)空虚な穴=チャンネルという大フレームに対する確率論的なフェティッシュの対象の構成=小フレーム。これは表象としての枠組み(タブローに対する木枠)=フレームではなく、実体論的な意味でのフレーム(枠付け)である。


影響力を持っているのは映画ではなく、依然としてテレビである。テレビはこぞって映画の問題系を回収し、映画の知覚の仕方を未然に決定させ、問題を戦略的に拡散させる。イラクにおける報道記者の死亡を伝えるにあたって、なぜ、選曲の客観性を欠いたセンチメンタルな曲が流れ、端的な「事実」を「心理的な問題」にひそかにすりかえるのか? 以上。