「物事を考えたいのだが、考えられない。」これを考えるにあたって最近(僕の中で)支配的なのは、「なぜ考えられないか」の一般解として「暑いから」とか「寒いから」を言い訳にする事はいたって簡単である、この事であろう。ところで、なぜ、この言い訳は簡単なのだろうか。「暑いから考えられない」という「現実」は「暑くても考える」という「意志」と無関係ではないからである。しかし、にもかかわらず「暑くても考える」(気候という現実的条件にめげずにやる)は、かつてあったはずの考える意志と、その挫折(「暑くても考えなくちゃならんが、今日は暑いから考えるのやめた」)という事実によって、それが強固な意志に支えられたものではさらさらなく、たんなる「理想」だった事に事後的ながら気付かされる事になるだろう。「考える事が山ほどある」と、僕は頭のてっぺんあたりで想像し、時に実践してはいるが、いたって深刻な現実問題として、「ここ半年はアルコール依存にやられっぱなし」といったところか。だが、これも「一つの言い訳に過ぎない。」とは分かっているつもりだ。9月になった。