新・映画ノート 3 ⚫2017・12





ベタな日本映画をテキトーに見直す会 みたいになっているが、砂の器。これ新聞に連載されたのが1960-61で映画化が1974。この間のブランク13年がまずミステリー。最初の企画の立ち上げはいつだったのだろう。シナリオは橋本忍(99歳で存命)に加えて山田洋次


食べ物撮す、ビール瓶撮すという後期小津経由の松竹伝統が受け継がれている。デジタルリマスターなのか、画像発色、音響が良すぎてやや違和感を感じる。とくに建物内部の会話のエコー、床に響く靴音のエコーには、耳を疑うばかりの存在感がある。


犬神家の一族 に出ていた美人女優 島田陽子が銀座のホステス役で出てくる。丹波哲郎演技上手く相棒の森田健作はどうしても大根になる。


途中までだが、横溝正史は乱歩直系の作家であり、松本清張は硬派ジャーナリズムでやっぱりあんまり俗っぽくない。どっちがいいってわけでもない。


犬神家の一族 観了。 ライティングの細やかさに気づく。犬神家の屋敷が相当に広く、なので人物配置時に、前景中景後景できあがってしまう場合が多い。だいたい暗め照明で顔姿を浮き立たせなおも三景をちゃんと見せるということ


これへの全うとした配慮が伺えた。スポット照明の発明はテクニカルにサスペンス&ホラーを支えてきたとは思うが、教科書的にこの映画が良いサンプルとなりうると思われた。


放浪の孤児が成金になる(成り上がる)には罌粟(ケシ……麻薬の原料)の栽培が必要だったわけでなおかつ軍隊による罌粟の需要がなければなかった。という意味で「すべての戦争はすでに阿片戦争」なのだが、国家が有力神社を守るという背景に罌粟栽培を制度的に押し付けていた、という仮説は


成立しないのだろうか。……むかし読んだ大木幸介の「麻薬・脳・文明」なんかで触れられていたように記憶するが文明の発祥と麻薬が切っても切れないのであれば、戦争で使用されるクスリ(鎮痛剤代わりの医療用大麻)と神社の儀式で使用される大麻になんの差があるのだろうか。


砂の器 途中まで。おそらくこの時点ではもっとも画面登場率が高い丹波哲郎のネクタイの締め方、それはだらしなく緩められていたり、キチンと締められているのですが、それをちゃんと見るように促されているように感じます。


島田陽子はまさにハマり役かもしれない。加藤剛演じる陰険な感じの作曲家の愛人(というよりも浮気相手)役。、幸不幸を天秤にかける稚拙な発言を加藤の車内でぶちかましたあと、車から逃走。大樹をゲンコツでしばき、やつあたり、憎悪を剥き出しにしたのち、踏み切りの前で倒れ、加藤の子を流産。


正確にはタクシーを拾うのではなく、拾われて、病院へ。そこで死亡。……これとは直接関係ないが、ウィキペディア島田陽子記述に目を通したがひどい書かれ方をしている。内田裕也か……悪い男に捕まったな……。


「奥さん……何かその時、変わったことはありませんでしたか?」必ず出現するのは他者の証言=言語である。「そうねえ。あの日はたしかクリスマス・イブの夜で…わたしついつい飲みすぎちゃって途中で暑くなって部屋を出て……」「それで?」「コンビニに行ったんです…。」「え!コンビニ?」


「そうです。」「近所のコンビニだと、ファミリーマートですね。」「そうです。」「じゃあ、一致するな……。」「何と?何と一致するんですか?」「いやね、奥さん……。あの時間、つまり22時くらいですかね、あなたをファミリーマート〇〇店で見かけたって人がいるんですよ。」「そ、そうですか。」


このような証言=他者の言語の洗い出しがあってはじめて事件=出来事の輪郭が整えられる。事件は空間軸時間軸を「他者の証言」を参照しつつ与えられ事件の結晶を確定してゆく。一方でたんなる「出来事=事件」を「特別な」「犯罪」とみなす警察学とともに事件を論理空間に押し込めてゆくのだ。


警察学の警、つまり「言うを敬う」ところに「他者の言語」のステイタスが内属されている。「言ってもらわなければ困る」のである。……「奥さん、事件の究明に協力してくださいよ。」……「けど……」「どんなことでもいいんです。覚えていることなら。」……「はあ……。」などなど


雨だ…考える…「事件についてなにか知りませんか」…証言とは主体と他者のにらみあいから出てくるものではなく、法の力能の所産である。法は上からの押さえ込みであり秩序の安定を保証しようとする。しかし、法はもっとも垂直的な言語表現で、犯罪と非犯罪の境界をつくる。


法の言語とわれわれのパロール(発話)が一致するのは(ペアとなるのは)この次元においてである。パロールは無軌道で、気まぐれで、とりとめないものだが〈事件〉の名のもとで、法のリジッドな論理空間に一気に放り込まれるのだ。


砂の器 9割くらい。コンサートで演奏する加藤剛、同時に行われる幼少期の回想。加藤を追い詰める事件捜査。トリプル・パラレル(並行)・モンタージュ。回想シーンは柳田國男の 山の人生を想起しちゃうな。田舎風情を撮っているのではなく田舎のリアルだ。少年の演技がまた素晴らしい。誰だ


砂の器 観了。ひとつ強調しておくことがあるならば、日付、時刻をしっかりセリフ―声として扱っている、そして住所、も最後の番地まで同様にセリフとして扱っている。これだ。すべては法のもとでおこっているという息苦しさをあえて(一見無駄に)見せることによって成立している非表象の表象。


被害、加害などを概念包括した法‐形式による裁きの一切、それは当事者の出生地、出生時刻に必ずかかわっているということ。完全なフィクションであってもそこに忠実であることが、逆に「放浪の孤児」という超少数な具体に迫れるということだ。


ここの入れ込みは清張にあって横溝にはないのではなかろうか。


ややメタから見れば、作者にとって作品が真実なのか、作者が真実なのか、という二元論的実存の問いを作曲家の加藤はひきづっていてそこが物語を駆動させているんだけど、エンディングではハンセン氏病(癩病)は……云々のテロップが出て、そこはズレすぎてんじゃないかと。