現代戦争ノート 1



■ 現代戦争ノート 1




(先日18日、暑い最中、調布まで足を運んでくださったみなさん、そして出演者であり、対談相手の古谷さん、ありがとうございました。とても面白かったです。)






(以下は7月18日、『RED RED RIVER 2』の上映に際して配布されたパンフレットに記載された「『RED RED RIVER 2』についての16のメモ」よりのメモ7、8、9の抜粋である。「現代戦争ノート」を書く契機的テキストなので目を通していただきたい。

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●7 戦争-1

夏になるとテレビや催しもので戦争を題材にしたものをやって、なんとなく終戦日あたりまで戦争回顧みたいなムードがありますが、それとは関係なく僕は年中、戦争に興味を持っています。(正確に言えば、自分の生活とまったく関係ないにもかかわらず興味をもっています)。3年前、主に古橋研一という方が書いた資料をもとに調布市内の戦争遺跡を見て回ったことがあるのですが、B29が墜落した場所を確定したいと思い調布図書館の司書の方に聞きに行ったことがありました。しかし、その場では住所までは確定できず、2週間待ってくれ、ということになった。司書の方はアメリカの国会図書館に連絡してまで調べてくださり、それで場所を特定することができました。そういう経緯があって、国領駅付近(国領町3丁目)を撮影しに行きました。(その数ヶ月後、京王線調布駅の地下化工事にともなって、B29の墜落時にそのまま放置され地下に埋まっていた車一台分ほどの不発弾が発見され、それを取り除く作業があり、もちろん当日の現場も撮影しに行きました・・処理現場の中にははいれませんでしたが)。



●8 戦争-2

「第二次大戦時、原子爆弾は京都に投下されるはずだった、そして京都は戦火を受けていない」という見解があります。京都人にもあまり知られていない事実ですが、京都市内で三カ所爆撃を受けている場所があります。

1、東山区上馬町付近 
2、上京区西陣、知恵光院通りと下立売通りが交差している付近(引火性があるからか油商の工場が狙われたようです、この油商は今でもあります)。 
3、右京区天神川四条付近(今は自動車工場になっています)。

調布市内でも3カ所、戦争にまつわる場所を撮影しています。

1、メモ7でふれた国領町のB29墜落現場、
2、同じく国領町にあるJUKIという会社、ここは戦時中は銃を生産していた工場で地下には射的場がありました。今ではJUKIはミシン(の部品)を作っている会社です。(JUKIは今では「重機」と表記されていますが、昔は「銃器」だったのだと思われます)。
3 調布飛行場。ここが戦争遺跡としては一番知られているところで、戦機を格納していた「えん体壕」も保存してあります。


京都で3カ所、東京で3カ所、計6カ所、特定した場所を撮影するという手法は『RRR1』のヴァージョンを引きついだものです。『RRR1』の方は京都、東京と同じく6カ所、可能涼介と二人で周り、川べりにある神木を撮影しました。(樹木信仰というテーマに沿って撮影しました)。
 

●9 戦争-3

ジャン=リュック・ゴダール(1930〜)は「人は戦争をするかわりに戦争映画をつくるべきだ」と言っています。



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先日18日、『RED RED RIVER 2』上映後のあと、16時30分に古谷利裕さんとの対談を終えた。(話が盛り上がっている、という感じでもなかったし、お互い訥々と話していただけなのだが、放っておいたらずっと話している感じで、会場側からの注意によって終了したのが可笑しかった)。


事後的ながら気付いたのだが、一番面白いというか、ひっかかったのは僕が戦争遺跡を撮影し、それを加工(操作)して見せている(テレビモニターで逆回転再生させているものを、さらに撮影したものを使っている)箇所についてのやりとりだった。


その箇所に関して、「戦争遺跡を戦争遺跡として伝えていないのではないか」という古谷さんの(やや批判的な?)意見(ようするに素朴なリアリティの伝達を良しとする立場の意見)として捉えたのだが、対して僕は「戦争遺跡には物質的なリアリティを感じることができない」という旨の発言をした(「リアリティがない」、のではなく「リアリティを感じることができない」)。



「戦争遺跡の物質的なリアリティのなさ」を直接的に伝達するために上記したような加工映像を採用したわけではないが、撮影している時点でそのまま見せる(素朴に、唯物論的に見せる)ことに抵抗を感じたのは確かであり、その確信のもとで、加工(操作)が行われている。どうしてその抵抗が起きたのかと言うと、やはり「直接に見せる」ことが「嘘っぽい」のである。言い換えると(僕が感覚与件としてもっている)戦争遺跡の物質性の「無さ」を直接的にわかりやすく伝えることはできないし、むろん「物質性」そのものを伝えることは不可能事であると判断したからである。加えていうと、僕が調布で「撮影すべきものを撮影するために」あれこれ試行錯誤したあげく「戦争都市、調布」(実際、調布は「軍都」と呼ばれていた)というモティーフを明確に意識づけ、3カ所の撮影場所をリストアップし、撮影にのぞみ、そのシーンをそのまま映画の中に組込んで、それで何か「戦争」のことをわかった気になってしまえるような「ムード」が起こってしまう、いわゆるぬるい「共感」が発動してしまうことに対してのスタンスを維持したかったからである。(つづく)(2010-07-19)