古谷利裕個展






人物Aと人物Bがいるとする。AがBを知覚することと知ることとは違う。知覚することはBの顔、服装、立ち居振る舞いなど外的な情報を捉えることを、その外的条件に持つが、知ることなると、Bの外的情報からいったん分離した独自のコンテクストにBを置きなおしてみることを必要とする。例えば任意の時間を設定してBに料理を振舞ってみること。逆にBから料理を振舞ってもらうこと。などなど。つまりはAとBの間にモノを現前させることだ。それが一枚のキャンバスに描かれた絵画だとしたら、それは絵画作品と呼ばれうる近似値をそのモノに内包してしまうのだろう。




作品が眼前にあるという位相はいささか神秘的ですらある。それは先験的に「知覚せよ」という命令を孕んでいると同時に「知れ」という信号をも孕んでいる。画集はパラパラとめくる習慣があるが、ギャラリーへ行くという習慣がほとんどないぼくは、実際の作品を見るとなると、身体がじわじわと緊張して自身がそのフレームに同一化するような変な気分に襲われる。昨日もそうだった。





通りからやや奥まったところ、ギャラリーのよく磨かれたガラス越しに絵が見える。ドアを引いて中に入る。まず、木のにおいがうっすらとしていることに気づく。中は雑然としている。コップ、皿、絵葉書、紙類、椅子、などなど、誰かの部屋にいるようだ。悪く言えば、リテラルに雑然としているのだが、良く言えば個展というコードに拘束されない弛緩した空気をもたらしてくれる。気負っていない、気張っていない、とでも言おうか。だが、自分の立ち位置に敏感になる。立ち位置が視線のすべてを決定するからだ。見る順番、見る角度、見ることの運動、そのすべてが統御され始める。




入ってすぐ、右側にかかっている二枚組みの絵が気になった。しかし、二枚組みというのは、たんに縦横比が同じくらいの、つまりは正方形に近いかたちの同一サイズのキャンバスを使用している、そしてよく似たタッチの絵であるという意味において二枚組みなのであって、作者の意図によるものかどうかは分からないし、二枚組みであるかどうかを保証してくれるサインがない。




その絵は『plants』と言う。茶や黄土それと相反するようなブルーを基調にした絵で、水平軸をぎりぎりに保持したタッチによって余白にできあがった形象の色彩がリズミカルに反復する。目が心地よい。パッと目に飛び込んできたときは白いキャンバスに浮き上がる輪郭のはっきりした濃色のタッチによって凹凸感を一瞬感じさせたのだが、近づいて見ると絵の具〔ジェッソ〕の物量的な浮き沈みはほとんどなく、極端に平滑化されているようだ。ヘラを使って平らにするような、例えばマリオンクレープで、その仕上がりを待ちながら、クレープ職人の手の動きに目が奪われつづけ、ある瞬間に彼が引き延ばすクレープ生地の、その薄さにある種の目眩を覚えてしまうような、そんな衝撃的な薄さである。





この絵の面白いところは、二つある。一つは配色の要素間において、俗に言うマーブル模様が描かれていることである。水色、茶色、クリーム色、など。冷気を奪われた三色のアイスクリームが溶け合い、一定の流れに沿って、交わり、抱き合っているような、そんな部分が唐突にあらわれ、別の位相を浮き上がらせる。(このマーブル効果においてはそれが垂らしこみの技術などによって偶発的に出来上がったものではなく、周到に意図された上で配置されていることが誰の目にも明瞭であろう。)マーブル模様は画面上に持続し、自足させている一定のリズムを瞬時に屈曲させる。ようするにベタの部分とマーブルの部分がそれぞれ独自の方向にリズムを刻んでおり、ここには複数のリズムが並存していると言える。





二つ目は、ベタの部分とマーブルの部分以外の効果。専門的になんと言うのかは分からないが、ベタの部分の尻尾に添えられた「残像」を思わせる効果を作っている部分である。それはキャンバスの目地をテンプレートに使った残像にも見えるし、筆触の残像にも見える。目地を周到に利用した点描部とも言えるし、点線とも言える。この残像はおおむね、やや茶色かかった黒が採用してあったと記憶するが、この絵の最濃色である残像部もまた、独自のリズムを絵の内部に穿つように現前させ、上記した二つのリズムにさらに輪をかけるように、色彩の運動を複雑なものにしている。





『plants』には三つの部分的リズムが並存し、互いが混入している。しかし、それはあまりにもさりげなく、かつささやかな試みであるために、誰の目にも明らかに感受できるものではないだろう。「三層の奥行きを持つ平面」、この語義矛盾を超越的に支えている、あのクレープ生地のようなジェッソの薄さ、めまいのするような薄さにまず、眼球が到達し、作品の内部からじわじわと捉えなおすことなしには、複数のリズムの並存は容易に感受されないだろう。このような平面に賭ける繊細さを『plants』は要求しているのかもしれない。





また、ギャラリー左奥に掲げられたトリプティックの『plants』。空間のコーナー(角)を利用した二枚と一枚に分解された三枚セットの絵。これについても興味深い考察が可能だが、それを記す時間が今はない。別の機会に譲ることにしよう。






(尚、たまたま会場で遭遇した作者に上記の残像部を作り上げる技術について聞いたところ、木の枝を使って描いた、とのことだった。これもまためまいのするよう話で、絵筆で描くこと以上の事態を作品それ自体が要求し、作者の身体に還元されているところに、絵を描くというコードを逸脱しつつもその内部に留まろうとするギリギリの可能性を感じ取った。尚、今回展示されている作品は、すべて『plants』と言うらしい)




●会場・期間についてはこちら↓

http://www.a-things.com/index.html


●古谷利裕さんのウェッブサイトはこちら↓

http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/index.html