「IMAGE」と呼ばれる対象についての唯一の回答へのヒント その5

(休憩:TOWERを横に、逆さまに)






「・・・そうなの、しゃべるってことは真実を引用することでなきゃいけない。ブレヒトおじさんがそう言ってたわ。俳優は引用すべきだって。」(『女と男のいる舗道』)



★1


東京タワー(1958年建造)の権威(象徴的な価値)が失墜し、今や「○○タワー」なる建造物が雨後の筍のように、分散的に造られているようだ。タワー業界におけるポスト・モダン?ビルディングはタワーに記号(名称)の場を譲り、マンションでさえも、その記号(名称)をタワーにすりかえる。タワーの流行、それは、9・11以降、「ワールド・トレードセンター(ツインタワー)」の陥落以降の建築的パラダイムの新兆候なのだろうか?それにしても、なぜタワーなのか?


高さは商品である。1階の家賃よりも10階の家賃が高く、高さの所有に比例して、家賃は高くなる。所有の観念は「物」から「眼差し」に移行し「眼差し」がステイタスとなる。そして、山頂に売っている物品が通常の市場価格よりも、やや高めになっているように、高さにはコストがかかる。それは風景の消費に連結されている。現代生活者=俳優は押しなべて無意識的にロケハンをしているのかもしれない。この次元においては、世界は自己の演出道具に過ぎず、高さもまたロケセットの一時的所有に過ぎない。今や「誰が一番上手く演じているか?」が競争社会の重要な側面でもあるからだ。


およそマゾヒストでない限り、われわれは上方から見られる、覗かれることに苦痛を感じる場合がある。そして「斜めから見る」こと、それが「斜めから上を見る」ことと「斜めから下を見る」ことのいずれをも含意しているとしても、たいていの場合、仮想された「場所X」から「斜めから見ている私を」見られていることを意識できるかどうかによって、その見方が変成する。(映画撮影的には無意識的<像>と意識的<言語>が混ざった入れ子状の複雑な見方をいかに方法論的に切断して、意識的に再構築しながら対象を見るかという問題機制において主体がその発現の強制に会う)それにもかかわらず、「場所Xから見られているんじゃないか」という「ウンハイムリッヒ・・・不気味」(フロイト)の設定こそが、「今、まさに見ている意識」は「対象X−ブラックボックス」から「今、まさに見られている意識」に晒されることを可能にし、そして同時に「眼差しの失調」を身体に刻み込む。なぜか?それは、ごく自然な現象(または一般論)として、視線の導線は身体の動線と一致するからである。出口があればそこから出て行くのだし、入口があればそこから入ってゆく。目立つものがあればそれを見ようと思わなくても見てしまう。「彼は何を見ているのか?」と彼の視線をトレースしたりもする。あるいは「何見てるの?ぼくにも見せてよ。」と、他者の欲望を自己の欲望に転化させる場合も、もちろんある。(他者が何を見ているのか不分明な場合でさえ、他者の眼差しを眼差すことを欲望してしまう、それに、こうやって敢えて言葉にしてみると、なぜ欲望するか?という「世界の謎−リアリズム−自明性」の一片が立ち現れるのが不思議だ。これは疎外論とは関係ない。それとも象徴秩序への参入?)


だが、視線の整流器(視線が動かされる具体的物理系統)は単一ではない。単一だと思いこむのは身体の一個性と対応している。それでは、なぜその思い込みが可能になるのか?身体がひとつずつ目前の問題をクリアしてゆき、整理された単線的な時間軸にきれいにのっとりながら行為を連続させている(身体こそが超越的な中心である)という信念の一個性(自己の身体を単一的中心とした見方)の強さがあるからだ。しかし(ルイ・アルチュセール大先生によると)現実的には整流器とは偏在的に構造化された諸−イデオロギーの隠喩でもあった。(その主要因は学校と教会、家庭にある)。そして、イデオロギーは、瀰漫的、かつ粘着的なものである。まるで皆が皆をして合言葉のように認め合う「身体の一個性=ワタクシ」という観念さえ脅かすような強力な対象なのである。そして再びルイ・アルチュセール大先生によると「(いたって現実的に)現実には常に想像的な関係の表象がつきまとう」。ゆえにぼくはタワーを考察するときに、「タワーと<想像的な>関係を<現実的に>持つ」しかない。それはどうしてか?ぼくはあのタワーというやつが何故だかうっとうしくてたまらないし、へし折りたいからだ。(無理だけど)
                   







★2

大きなモノを見た後は小さなモノを見よう。例えば、フッと吹くとわずかに動く床の隅にあるホコリ、壁にできた一点のシミ、いつのまにか手のひらにできた小さなホクロなど、身体の痕跡(と同時に兆候)を空間に滞留させながら、われわれが「行為する」ことに気を配ってみよう。まさにいろんな行為をしながら行為をする。部屋に貯まったホコリ、置き去りにされた思考対象、沈殿してゆく何かを一様に無視しながら。しかし「そう行為しようとしても行為したとたんに間違い続ける。」言い損ね、書き損ね、歌い損ね、出会い損ね、行くべき道を間違い続ける。まさに間違うことに常に存在論的に成功する。「間違ってばっかり!」と、叫び損ねつづけねがら、執拗に行為する。そして、裏返して言えば、理念や目的もなしに、すでに行為はひたすら<失敗しつづける>ことに過去完了的に成功していたのだった。まさに「散歩としては成功している」(ラカン)わけだ。そこで、逆説的にではあるが、「ある」とすっかり内面化していた構造物(存在)が「あるはずもなかった」非構造物(無の存在/存在の無)を身体に刻み続け、エラーの累積は世界に滞留(生成的滞留?)しはじめる。







ホコリやシミの、その残余性と過剰性は、それとは想像的かつ無関係的に行為を肯定しながら行為する憑き物のようなものだ。そして(これがとても重要だと思われるのだが)エラーとは無関係だと思われたホコリやシミを意識的に直視することによって、自分が整流されていることに失敗したということ、つまりアルチュセールの言う「国家のイデオロギー装置」の<外>に一旦出ることができたのだと自分自身に向けて言うことが可能になるのだ。それではぼくがホコリとかシミとかホクロと言っている当の隠喩は何を指しているのか?それは、(ちょっと気合を入れて言うと)一切のイデオロギー的諸関係から切断された身体の痕跡(残余−突然に外側から賭けられた対象像)を「超越論的に想像する力(註)」のことであり、超越論的想像力を酷使しながら、思考することであり、思考し続けることに肯定的に失敗し続けることである。いかにも、ぼくは、彼は、彼女は、書き続けるだろう。書き続けるのに失敗し続けるために。そして、ブラックボックスのように、解き明かされない何かであるために。(「目的は、目的の喪失だったろうか。」・・鹿島田真希?)







トマス・モアの『ユートピア』(1516・英)がたんなる造語から冗談のように書かれたことに注意しよう。(トマス・モアはイタズラ好きであった。後に定着する「ユートピア」(楽園)という言葉にしても、周知のように、「ウ(否定接頭辞)+トポス(場所)」というギリシャ語からの造語であり、「どこにもない理想の国」という意味であるよりは、モアの意図としては単なる駄洒落のつもりだったらしい。)







タワー、それは神話的、ヘーゲル的、SF的な比喩を借りれば<バベルの塔−絶対知としての中央演算装置(CPU)−国家>に「成功」を回収し、登録する装置であろう。人は絶対知を得んために、積極的にタワーに回収されたがるだろう。それが<タワー−オーソリティー(権威)−ステイタス(地位)>のメタファーだと信じこんでいるからである。しかし、レジデンスにもホコリは貯まるし、シミもできる。どのみちブラックボックスもまた、アメーバのように偏在するだろう。(このアメーバの代理表象がゴダールの『カラビニエ』の主要なテーマでもあった・・・エッフェル塔の絵葉書を介しての高さの所有と消費の超越論的分析)







われらの二足歩行。われらの直立二足歩行。しかし、都心において上方は制圧する。サングラスか、あるいは目深に帽子を被るのが正解なようだ。広告記号の氾濫。表徴の帝国。・・・アパシー(無関心・・・サド)はひとつの方法であり、それもまた戦争の一形態であろうか?あるいは「私はブラックボックスにしか関心がない」と。これぞ見出されるべきタワーであるか。「時よ、来たれ」とランボーは歌った。(「一番高い塔の唄」)







(註)
『テレビのエコーグラフィー』ジャック・デリダベルナール・スティグレール(1996・邦訳出版2005)所収のテキスト『離散的イマージュ』(ベルナール)には次のように書かれてある。






映像一般なるものはない。心像(イメージ)と呼ばれるものと、わたしが映像対象と呼ぶものは、唯一かつ同じ現象のふたつの面である。映像対象とは、いつでも歴史のなか、技術的歴史のなかに刻銘されているものだ。映像のこのふたつの面は、かつて記号内容と記号表現の両面が言語記号を規定していたように、切り離せないものである。シニフィアンシニフィエというふたつの概念に関して、ジャック・デリダが行った批判は、シニフィアンとはある理想的な不変体の偶発的変奏であり、この不変体こそシニフィエということになるなるだろうという意味だった。この批判は決定的である。「超越論的シニフィエ」などないのと同様に心像一般、つまり映像対象に先行する<超越論的想像物>(imagerie transcendantale)も存在しない。ただし、超越論的想像力の問題は残る。わたしがこれから論じるのはこの問題についてである。

なお、『離散的イマージュ』はシャルルヴィル−メジエールの国際人形劇研究院において行われた講演である








メモ1:アーキグラムのメンバーだったピーター・クック(1936−)は都市に昆虫のような脚があり、居住者が希望する場所へ移動する「ウォーキング・シティ」(1964)など、<動く>建築物を考案していた。


メモ2:「手書きの文書には身体の痕跡が残るが、個々の独立した文字を機械的にタイピングしてある文書、いわゆるPCの文書には身体の痕跡が現れない。」という文章をどこかで読んだ。手書き文書は平面(紙)に垂直の軸(ペン)を立てる。水平と垂直の関係が身体の圧力を媒介として表現され、この次元に身体のエネルギーの流れを確認することができる。一方でタイピングにおける垂直の指圧は直接的に画面の<文字の横移動‐水平性>に即時的、かつ視覚的に還元され、ここに速度の調達が確認される。