同性愛者同士の入場お断り



裸体、というにはあまりにもその輪郭がはっきりと目だちすぎ、肌つやの陰影を欠いた女体たち。裸体、例えばゴヤの描いた「裸のマハ」、あるいはジャック・リヴェットのものしたエマニュエル・ベアールの「美しき諍い女」、そうではなく、裸体としての同一性を確保しつつも裸体ではない何か・・・・。かつてそのあたりはドヤ街であったという新宿南口駅から人の密度を追いかけ、わずかばかり歩いたところに古ぼけた成人映画館、国際劇場の入口がある。猥雑、というにはあまりにもがらんどうで、荒廃感さえただようその入口、野ざらしに立てかけられた宣伝ポスターにぼんやり見入ってみる。





ついさっきまでは渋谷で同郷の洒落女と呑んでいた。久しぶりの南米産のテキーラに胃を焼かれつつも、浮世話に花を咲かせ、つれづれ時を過ごす。「京王井の頭線明大前駅から乗り換えよう」と、店を後にしたとき、ふと頭をよぎったものの、あっけなく終電にのりおくれたあげく、財布もすっからかんになったことに気づいたぼくは、まあいつものことだが、夜をそぞろ歩くしかなかった。明治通りを抜け、寒風に煽られつつも、立ち食いうどんなぞで体をあたためながら、歩く。そして当然歩き疲れる。眠気で体がかたまったちょうどそのとき新宿が近づいてくる。JRの線路沿い、高島屋タイムズスクエアの二階から上空に架橋されている紀伊國屋書店に隣接している小さな洒落た公園のベンチに、眠気と疲れにまみれた体をあずける。ケツが冷たい。だが眠気が絶頂に達していたのか、体はそれを横にすることを即座に受け入れた。クリーニングに出したばかりのコートが汚れるだろうに・・まあよい。20分ほど急な眠りに嵌っていたら、「ここは寝る場所じゃありませんよ〜。」・・・なに黄色い声出しとんねん。そんなこったわかっとるわい。と体をゆっくり立てると、警備員はもう視界の遠くにいる。再び眠りに入るとして、警備の往復ルートの途上、再び起こされるだろうと、しばらくして警備員が、「寝る場所じゃありませんよ〜。」・・・今時の公園はまったく<公の園>ではない。腕時計に目線がみちびかれ、あと一時間半もすれば始発が出るだろうと、重いあたまを揺らし、再び歩をずるずる進めたぼくは、暖を欲しがってか、街のにぎやかな方へ出てきてしまった。





「同性愛者同士の入場お断り」。成人映画館の地下、券売機に貼り付けてあるプレートだ。彼/彼女たちは成人映画館の中でいちゃつく。上等でも下等でもない。ただ圧倒的にマイナーなのだ。この愛の形態がひとつの数寄な「文化」なのだとすれば、この成人映画館はこの希少な性愛の場所を受け入れる隙間を持たない。フィリアを育てる場所、パイドラステイアが乱舞する場所を正面から排除している。ポケットからのくしゃくしゃになった野口英世1枚を見事に券売機に吸い込まれ、ちらほらの頭影にまぎれてシートに腰を下ろし、スクリーンを見るともなく見、その画面の(明度)の暗さと、その空間の理解し難い隠微さが未だに現存していることに、多少の驚きはあったにせよ、男の欲情をかきたてようとは露にも感じられず、また気の利いた説話への意思的配慮もこちらにはまったく届かず、結局いったいぜんたい現在の成人映画はいったい何がしたいのか?という問いというのも愚かな漠然とした思いを重いまぶたに残しながらささやかな眠りについた。





その昔、「八千代会館」という成人映画館に数回足を運んだことがあった。スクリーンの上にキッチュギリシャ建築風のアーチがかかっている大正モダン的な佇まいをもった、京都の町中、新京極の南北半ばを西にずれたところにある成人映画館だ。薄暗く、小汚い踊り場にまっすぐ左右の足を交差させた、くわえタバコのホモが煙をくゆらし、あるかなしかの視線をこちらに送る。ある種の霊気さえ感じられる踊り場の愛の空間に同性愛の妖精たちは、ここぞとばかりに息づいていたのだ。ところが、ここ新宿では「同性愛者同士の入場お断り」と貼り付けてある。それを<用無し>として、あっけなく切り落とされた魚の頭部を即座に「燃えるゴミ」として分別するような直接的な冷淡さをもって。





(これは昨年11月中頃に書いたものですが、空間における権力の配置を考えるにあたって参考になると思い、アップしました。はっ!)