手袋はめて


1月8日付けのdcsyさんのブログで昨年末に起きた早稲田大学不当逮捕事件のことを知った。ひどい話だ。世の中にはいつまでたっても偉そうにしている人がいるということを改めて感じ入った。早稲田大学のことは良く知らないが、通念的には、大隈重信で、「在野精神」ということなのだろう。しかし、(ギリシャ風に言えば)あけっぴろげな<field−野−キャンパス−アカデメイア>で、「ビラを配布する」「ビラをもらう」という手と手の精神、奇跡的な手と手のめぐり合わせを不当に抑圧するというのは、世界がいかにみみちいものになりつつあるのかの証左でもあろう。





でも、大学の自治とか、自主管理といってもぼくにはピンとこない。それは、ぼくが通っていた龍谷大学の瀬田キャンパスは滋賀県からの誘致によって、暴力的に山を削って造成されたようなさら地にあり、当時1回生と2回生しかいない、ことごとく歴史を欠いた場所だったためだろう。なおかつ理工学部社会学部と二つの学部しかなかったため、人数は極端に少なく、大学内はそれこそアントニオーニの映画のような閑散、茫漠とした空虚で漂白された空間が広がり、本当に歴史とか記憶を欠いたのっぺらぼうな場所だった。何かをやるにしても零から始めなくちゃならんな、という感覚があった。もちろんサークルと言えるものは3つか4つしかなく、ぼくは映像研究会をつくろうと思って、チラシを掲示板に貼ったりしたのを覚えている。・・・話をもとに戻すと、早稲田の運動系(?)の人たちとは随分前に会ったこと、一度、「ここがダメ連がたむろするところだよ。」と、可能涼介に連れられて「アカネ」という小さな呑み屋に行ったことを覚えている。もう何を話したのかはさっぱり覚えていないが、その場所にたむろっている人たちには「何か有り余るエネルギーがあるんじゃないか」と漠然と感じていたような気がする。多分、そういった人たちが怒りを大学当局にぶつけたのだろう。それはそれで素晴らしい行動だ。この事件で重要なのは、もちろん「言論統制」と言われる基本的な言論欲求活動精神を踏みにじるような行為に繋がりかねない大学当局の思いあがった権力にあるだろう。




それにしても一つ不思議なことがある。逮捕された青年は早稲田大学の学生ではなく、外部の人だったということだ。それに外部の人がサークル部室の強制撤去をめぐっての抗議文を掲載したチラシを配っていたというのが、どうも分からない(その青年もサークル部室を使用する外部の人なら話は早いのだが)。




この事件をめぐって驚いたことは不当逮捕された青年の釈放のために映画作家、脚本家の井土紀州が呼びかけ人として、トップに名を連ねていることだった。(抗議文ここ)彼と当の事件にどういった関係性があるのかは知らないが、さすがに元アナキズム研究会部員で、『レフト・アローン』をつくった男だなと感服した。(そして「彼はアクティビストである」、と言っても過言ではないだろう)そして、ぼくが強調したいのは、この事件が「言論の問題」であるばかりか「空間の問題」である、このことだ。それは最終的には「空気は誰のものか?」という「空気を所有する主体」という観念に覆われて、訪れるのだと思う。(ちなみにこの問題意識を最初に植え付けてくれたのは『原理主義とは何か?』という鵜飼哲港千尋西谷修の三氏による鼎談集だった。)ぼくはこの事件をすぐれて建築的、空間的な事件として捉えた。