架空庭園の書 5 (恐山行き 4) )

気づいたことがあった

恐山菩提寺は円仁(エンジンではなくエンニン 794年 現栃木県生)によって創建されたという

 

そこに本尊である<地蔵菩薩>が祀ってある建物がある

賽の河原から極楽湖へ つまり巡行ルートの歩を始めるにあたっての最初の門ということだだろう

 

そこでお賽銭をいくらか投じて 両手を合わせ 何事かを念じる (字義通り今の心を念じる)

 

車の運転が心配だったため、体調は良かったが 下唇の一部が内出血を起こしていたため

大袈裟だが 生きて帰れるのか という心配があった 全くなかったといえば嘘になる

 

なので 生きて帰れるように 念じた

 

後は

 

54年と10ヶ月 生きてきて

20代後半より 数々の 死に目にあってきたので

死の国にいる 彼ら/彼女ら への 媒介祈念 といったことか

 

おそらくは 1分以上目を瞑り手を合わせていたのだが

当たり前に何も見えない

ここにはこころの声というものしか 身体を媒介するものはなく

その位相に支配されている なので 念ずることが可能になる

 

気づいたこととは目を瞑り 念じ終わって 目を開く

その手前のわずかな時間のことだ

心の声で念じ終わり 目を開けるまでの わずかな時間

 

そこにある 

映像というか 図像というか 模様というか 何か色と形象だけがくっついている

抽象的なサインとでも言おうか

 

そういう何かが 目を瞑っているその 暗み黒み のなかに 一瞬出現するのだ

 

これが 大変 重要なのではないか と 思えた

 

願いこと 念じこと その後にくる Xの現前だ

 

ということを書いている上では

 

今回恐山菩提寺 地蔵菩薩 を参った ことから

何かを学んだという か 気づいたことがあった

と確信したい

 

礼拝 

参拝 

文章の結びにつけるうやまいに近い意味の拝

 

これは形式上の行為として なぜか 見なされている

形式であることを なぜか 要求されている  手を合わせる 未然に

 

 

(付記)

円仁は東京にある(最も古い寺)浅草寺も建立したということだ

同一人物による 恐山菩提寺だ ということに

驚く

 

恐山 菩提寺

慈覚大師 円仁