気づいたことがあった
恐山菩提寺は円仁(エンジンではなくエンニン 794年 現栃木県生)によって創建されたという
そこに本尊である<地蔵菩薩>が祀ってある建物がある
賽の河原から極楽湖へ つまり巡行ルートの歩を始めるにあたっての最初の門ということだだろう
そこでお賽銭をいくらか投じて 両手を合わせ 何事かを念じる (字義通り今の心を念じる)
車の運転が心配だったため、体調は良かったが 下唇の一部が内出血を起こしていたため
大袈裟だが 生きて帰れるのか という心配があった 全くなかったといえば嘘になる
なので 生きて帰れるように 念じた
後は
54年と10ヶ月 生きてきて
20代後半より 数々の 死に目にあってきたので
死の国にいる 彼ら/彼女ら への 媒介祈念 といったことか
おそらくは 1分以上目を瞑り手を合わせていたのだが
当たり前に何も見えない
ここにはこころの声というものしか 身体を媒介するものはなく
その位相に支配されている なので 念ずることが可能になる
気づいたこととは目を瞑り 念じ終わって 目を開く
その手前のわずかな時間のことだ
心の声で念じ終わり 目を開けるまでの わずかな時間
そこにある
映像というか 図像というか 模様というか 何か色と形象だけがくっついている
抽象的なサインとでも言おうか
そういう何かが 目を瞑っているその 暗み黒み のなかに 一瞬出現するのだ
これが 大変 重要なのではないか と 思えた
願いこと 念じこと その後にくる Xの現前だ
ということを書いている上では
何かを学んだという か 気づいたことがあった
と確信したい
礼拝
参拝
文章の結びにつけるうやまいに近い意味の拝
これは形式上の行為として なぜか 見なされている
形式であることを なぜか 要求されている 手を合わせる 未然に
(付記)
円仁は東京にある(最も古い寺)浅草寺も建立したということだ
同一人物による 恐山菩提寺だ ということに
驚く
慈覚大師 円仁