架空庭園の書 4 (恐山行き 3)

楽しんでやる やらない

苦しんでやる やらない

 

いずれにしても ある程度 楽しくやらないと

続かないだろう

この ある程度 

 

全ては 程度 の 問題

 

ものを作っている人の こころは

ものを作っていない人の こころからは

見えない

 

ものを作っていない人のこころに向けて

そこに届くように 作ったとしても

それは 見かけの共感 を呼ばずにはおれない

 

そこにある豆腐は

100人がそれを知覚して 100人が

 

それを豆腐である 豆腐としてそれを 認識しているから

それは 豆腐として 安定できる

その物体は

 

この 安定 を糧にしている

高橋由一の描いた 豆腐 は

誰が見ても 豆腐として 見えるから 

それは 豆腐の絵だ ということができる

100人が豆腐として知覚する限り

その見え方は

100通りあると いうべきだろう

見え方のバラバラさ加減

これを認めることが

批評の始まりなのだ

 

ものの見え方はあり

それは ものを作っている人にもあるし

作っていない人にもある

 

このズレこそが ものを作る始まりなのだ

 

 

今更こういうことを書き連ねて 何になるのだろう

 

言いたいのは

 

ものを作っていない人に

ものを作っている人が

合わせるべきではない

 

ということだ

 

作品を見る この始まりがあって

感じ方がある 100人100通りの それ

 

この次元にとどめるべきなのだ

 

恐山に行った翌日に

こういうことを考えていた

 

これを忘れないようにしようと

念じながらその後を過ごして

今に至る

 

恐山 賽の河原