昨日のつづきメモ




実のところ、どんな職業であれ、あらゆる労働は「体を売ること」により成り立っている。ファッション・モデルはファッション・モデルという「イメージ」によって支えられ、世間からちやほやされやすいが、実のところは過酷な肉体労働に他ならない。(と、かつて知り合いのモデル男が言っていた)。哲学書を執筆している人も、体をさほど使っていないにせよ、頭を使っていて、頭を肉体の一部だと捉えたら、もうそれは肉体労働に他ならないだろう。(実際カントやヘーゲルは、どう考えても頭の肉体労働者ではないか。)






「体を売ること=働くこと=生活をすること」を真に考えるのは資本主義経済それ自体が忌み嫌っていることだ。資本家は労働者に「資本主義経済」のことを考えられては困るし、一方で労働者に餌をあたえ、「まあ、このくらい餌を与えておけば黙りこくっているだろう」と手を組んでいるわけである。例えばテレビ、そしてインターネットで簡易に見られるポルノグラフィなどがそうである。そしてテレビを見ることが「貧乏くさい」行為だと気付かれないように、あれこれデコレートするわけなのだ。その意味で、資本家は労働者を管理するという労働者でもある。






先日電話で話したことに次のようなトピックがあった。それが使われる文脈があるだろうが、「職に貴賎はない」と言われることがある。違うと思う。「職に貴賎がない」というのは資本家が労働者をうまく作動させる(丸め込む)ための「合い言葉」的な何かなのではないか。(職に貴賎がないとすれば、これだけの経済格差が起こるはずはないし、貴賎がないとすれば、共産主義ユートピアだ)そして「慣用句」や「ことわざ」にもいろいろあるが、権力者側から出て来たそれと庶民側から出て来たそれがある、ということを見逃してはならないだろう。