ほんの30分前に知人から久しぶりに電話があり30分ほど話した。そこで気になったことをメモしておこう。
電話の声の主、彼女はデリヘル(デリバリーヘルス)という職についている。平たく言えば風俗嬢である。私は風俗嬢に関して免疫がある(風俗嬢の友人がいることに対して何の抵抗もないし、むしろ喜ばしいくらいだ)ので何とも思わないが、私のよく知っている人に、その話をして「引かれた」らしい。彼女は「身を売る、つまり売春することによって少なくとも社会に役立っている」という説明をしたところ、引かれついでに「もっと別の献身の仕方があるんじゃないか」と言われたらしい。
私は「風俗嬢をやっていると言って、友人に引かれた」彼女に同情しているわけではない。少なくとも、それがどんな職であれ、その職をいかなる理由で選んでいるのであれ、彼女はまさにそれを<選んでいる>のだし、やりたくないことを選んでいるにしても、事実上それを選んでいる、これをとりあえずは肯定していることを、尊重すべきだ、そして、(このネガティヴだかポジティヴだか、何だか分からない状態に)「白か?黒か?」をつけるのではなく、彼女の欲した「グレイゾーン」を尊重すべきだ、と言いたいのだ。(彼女が今すぐにでも「デリヘルやめたい」と言っているなら話は別だけど)。
ついでに言うと彼女はスピノザという偉大な哲学者のファンであり、研究したい、と言っている。「たんなるスピノザの読者」なら「はー、そうですか」だが、「スピノザ・ファンのデリヘル嬢」ならなおさら特異であり、希少性があるので、注目するに値する。
「風俗嬢やってます」と言えば、「公務員やってます」と言うよりも、まあ生きにくいだろうし「風俗嬢で、しかもスピノザ・ファンです」と言えば、よけいに生きにくいだろうし「ややこしい人」だ。しかし、思うに「少数派=特異体=単独体」こそが「世界でたったひとつの花」(SMAP?)なのだ。道ばたにダラダラ咲き誇っていい気になっている花などは見るに値しない。理想論的社会人よりも存在論的ギャンブラーこそが見るに値するし、こちらの感性を刺激してくれるのだ。
ついでに言うと私も25、6の頃、体を売ったことがあるが、まったく後悔していないし、むしろいい経験だったと思っている。いわゆる新宿二丁目的なゲイの発展場の「売り専」ではない。「お京都」の四条河原町でゲイのおっちゃんに薔薇向けのヴィデオにでないか?とスカウトされたのだが、まったく断る理由がなかったのだ。まあ、今もそうだけど、当時は絶望的にお金がなくて、本やらCDやらバンバン売っていた時代で、ついでに体も売ってしまっただけのことやけどね!