アルコール依存をどうにかしたいと、いつか本気で考える日がくるだろうと、しかし、一向に本気になれる気配がない。どうしたことか。何か「この世界の絶対性がひとつのしらふの状態の理性によって支えられている」ことにとてつもない苛立ちがあるのかもしれない。夜の世俗と酒は切り離せない。一方で昼間の理性に酒は使用されない。夜の暴力や淫行をもたらす酒は国家が管理しつつ、裏側で望んでいることだ。(ああ、事件が起こって欲しい、と)。





考えることはしらふで考えることであって、
しらふ頭脳の状態を絶対的なものとして前提していることへの懐疑。
古代ギリシャ人は昼間、酒を呑みながらモノを考えていた、
それは岩波文庫から出ている『ギリシャ哲学者列伝』という、
とても面白い本に書かれていた、
と、そんなことをかつて誰かに聞いた。
シュンポシウム(シンポジウム)という語はそのような
「議論のスタイル」
を指していた、
とも書かれていたそうだ。