『太陽はひとりぼっち』





を見なおす。ある時期からアントニオーニに注目しなおしたのは、かつてゴダールがアントニオーニにインタビューしたものを読んだことがあって、そこで「アントニオーニは大学で量子力学を専攻していた」ということが、判明したからである。(『作家主義』1985・リブロポート・奥村昭夫訳)そこでアントニーニ映画の量子力学性がいかなるものなのかを画面から抽出し、知ろうとするのだが、まだ頭のなかで纏まってはいない。





ミケランジェロ・アントニオーニは郊外の映画作家だ。都市の喧騒ではなく、郊外の退屈さを描くことを望んでいる。都市からも田舎からも疎外された高層の集合住宅や、人通りの殆どないだだっぴろい道路が、その景観を代表しているような場所である。密度を欠いた土地で人と人との間に生起するニュアンスを欠いた距離が生まれ、郊外のどこか収まりの悪い、宙吊りになった生活の様態が描かれる。そして、アントニオーニ映画において特徴的なのは、「郊外の者たちが刺激を求めて街へと繰り出したり、岡崎京子のマンガのように何かを積極的にしでかす」ことが少しもないということだろう。だから出来事のすべては郊外の閑散とした土地で起こる。フレームの中は常に一人か二人か大勢(極端な大勢)で、三、四人がだらだらしているという場面がほとんどない。(女同士がだらだらしているシーンは『赤い砂漠』にはあるのだが)。そして男(アラン・ドロン)と女(モニカ・ヴィッティ)がフレーム内部にいる時でも、その多くの場面は、二人が近づいたと思ったら、離れ、また近づいたと思ったら離れてしまう。主人公のモニカ・ヴィッティは婚約を破棄したばかり(映画の中で彼女は「男は本やテーブルやコップと同じですぐに飽きるもの」というセリフをポソリと言っていた)で、愛の意味を喪失しているのだが、モニカの母親を介して知り合った証券取引所に勤務するアラン・ドロンに心魅かれてゆく。彼は好青年そのものといった感じで服装も髪型もビシッとしているのだが、モニカの髪型はつねに、ボサボサである。このボサボサはよくよく考えてみると、モニカが婚約を破棄したばっかりなのに、自らがドロンに抱いてしまう恋愛感情に対して心理的に混乱しているように見せかけるために、意図的にアントニオーニが演出したものなのだろう、という推測が成り立つ。でも、ボサボサは現代においては、わりとファッショナブルな髪形なのだろうし、ボサボサだからといってそれに違和感を感じる人も少ないのかもしれない。『赤い砂漠』においては彼女の髪は赤茶色だったが、モノクローム画面で見るモニカの白く光るボサボサは、彼女の空虚な目線と相まって、画面上で強い存在感(空虚であるがゆえの強い存在感)を示している。






『太陽はひとりぼっち』(1961)は(特に人物を背後からやや俯瞰で写す)カメラワークの効果や、水という物質を画面に出すタイミングや効果については勉強になった。だが、『情事』(1960)や『赤い砂漠』(1964)に比べるとシナリオの時点でおおいに手を抜いていると思われた。