「見え」と「見る」





成城から喜多見に抜ける道沿いの空き地で、植木や草花を中心にシューティング。晴れやかな空の下で露出を調整するのに無心していたら、目が変になってくる。ファインダーの映像と現物を交互に確認していたため。もちろんファインダーの映像は外光を遮ってフレームの外が黒味になっているから視界は安定するのだが、いったんファインダーを離れた肉眼は、離れた瞬間、反射的にハレーションを起こしたようになり、前景がぼやついて見えてしまう。このぼやつきを回復するための時間が若干必要となることに注意を向ける。






DVカメラのオート機能はあまり信用できない。雲に太陽が突如遮られ、光量が減っても、機械が外的条件の変化に反応する速度がまったく一定していないように思われる。モニターで確認すると分かる。露出しかり、ピントしかり。





カメラに媒介された撮影対象を捉える眼は、だいたい露出値の決定と構図づくりに意識が集中してゆくが、これをどこまで一般化できるのかはわからない。露出を決めようとする意識と構図を決めようとする意識が並列しつつも分裂し、意識の及ばないところで、指が感性的な判断によってほとんど勝手に調整している。いくらデジタルだと言っても、対象に向き合っている際の意識はアナログに近い。フィルムとビデオの露出機構は構造的(光学的と電子的)に違うのだが、いずれも「こういうふうにこれを撮りたい」という未然の判断がある限り、現実の像と映像の現実間のズレをいやでも感受することになる。




「見る」という事態は「○○を見る」という目的格をもった動詞によってその内実を規定してしまいがちだが、○○は目的というよりも目的からその都度に差異化していく「見え」の複数性の中にしかない、という当たり前と言えば当たり前な事実を再確認する。