帰省記 3

さて、もう20時か

帰省記3を記そうと思うが

もうすでに東京に戻ってきており、そんな気分ではない

だが

3つか、4つだけは 記述しておきたい

なんだろう

 

1正伝寺

 

ここは小学2年か3年か4年に行った。ぼんやりと覚えているが

クラスに知的障害というか当時の言葉で知恵遅れというかそういう生徒がいて、彼の苗字も覚えている。

彼は西賀茂の奥の山地のほうに住んでいて、お父さんが寺の住職の方だった。

正伝寺に一人で行ったのではなく子供たち数人で行った。クラスメイトだったように思う。比叡山の借景をしつらえた庭園風景はまったく覚えていなく血天井はぼんやりと覚えていた。その血が「ほんものの血」だということで子供心にもおどろいたのだろう。しかし、小学校のときに見たそれとはまったく趣を意にしていた。その血天井伏見城から移設されたということも今回初めて知った。もっと茶室のようなところの天井だったように記憶している。その茶室の襖を開けると庭園っぽい空間があり、垣根の向こうに抜けのよい風景が広がっている、と記憶していた。

 

市バスの西賀茂車庫から歩いて行けそうだったので歩いて行った。おそらくむかし(1970年代半ば)はこんなに住宅はなかった。正伝寺まで辿り着く山道も昔の方がながかったように思えた。持参していたヨーグルトグミが溶けて一体化するほどの暑さだったが、コーヒーにウィスキーをを混ぜてのんだりして暑さを紛らわしていた。

 

詳細にレポートしたいわけではない。来訪者は一人で、ずっと一人だった。贅沢な時間かどうかわからないが、スッキリして、ああここが京都でよかったな、と思った。

 

古には(山科、近江からの)上洛者の敵味方を判断しなくてはならず、延暦寺を起点に僧兵も確保していた比叡山が借景になっている。

 

過激な戦地でもあった都への情報伝達にこの正伝寺が作られたと思えて仕方ない。比叡山というplatformからよその地へと送るべき情報。山から山へ、という修験道ではなくデバイスとしての土地。京都の造形性の合理的根拠がここにある、とも思えた。

 

借景は美的な位相もあるが実はこういった兵站術に裏打ちされたコンセプトを含んでの作庭だったのではないか。