近況







イマゴン・スタディーズvol.5を終えた。



一般的に「勉強」という概念はもはやピンと来ないかもしれないし、「かったりーわ、勉強って何??」と、なりがちなのが多数派なのだろう。が、、知ることはやはり面白いし、知ってから、いろいろ思うに任せて展開させるのはいまなおもって興味深いことだ。(あんたはちゃんとがんばって50歳も生きたんや。もう、わかっとるやろ、全部。だから本なんて読まんでええし、毎日気楽にやってたらええわ。あたらしい経験なんて、そんな必要ないやろ・・・という国家の声・・)この衆愚政治のヴァリエーションから逃れるための鋭利な頭脳開発段階。死こそがリミットであり、リミットこそが死である場合。



知や思考の展開は技術的な領分であり、ファンクショナルな時間を生む。頭でわかってその次に体(身体)を通過させ、さらにわかった頭を欲し、循環させるということ。頭と体は相互不可分であるが、むろん体が先行しないことには、頭は頭としてのみ完結するしかない。



コンピュータには身体がないし、むろん性差がない。
ヒューマン・インターフェイスという概念が愚かなのは、この性差を無視無効化しているからである。
男は女のオルガスムスを永遠に感知することはできないし、逆も又真なり。この非対称性がある限り、人間は生物に留まったままだ。なぜ、こんなに猫の写真があふれ、犬が愛でられているのか。それは「人間は非-言語的な生物として<かつて>あった」、という超無意識性のあらわれなのか。寄り添うこと、何かに。暖気に、同じものに、同じようなものに。

ディジタルとはその語源として「指と指の間」を意味するが、音素集合と音素集合の間(差異)が言語なのだから、非言語とは、むろんana log(anaは否定の接頭辞・・つまりアンチ・ログ/反言語)の実体でもある。経験はこのana logに基づいている、とすれば、やっていること、したこと、つまり経験そのものを言語化するのははなから無理なことだろう。経験そのものは認識に関与するというよりも、経験の続行、その反復にこそかかわる。よって経験そのものは、どこまでも言語的認識をきらう。経験が(思考や言説よりも)美しいのはここにある。

経験の美学化。ここにエラー(失策)の軽減作法がある。いつのまにか自転車が乗れていた、これを経験できるのはほんのわずかな子供の時の時間である。

知識量で考えるのではなく、子供のように、持ち合わせの概念でまずは考えること。これを看過しては、
読書なんてのは児戯に等しい。本読んでるやつが偉い時期があったが、今はそんな時代ではない。時代なんて概念はきらいできらいでしゃーないが、きらいならきらいでやりすごそう。偉い、偉くないというのも、たいしたことではない。愚痴は卑劣である。だが、批評は何かを育てる。