コメディの専門家、または『ムーンリヴァーの向こう側』の作者として記憶していた小林信彦。・・・この書はコラムニスト、小説家でもある彼が20代後半に渥美清と出会い、死別するに至るまでを綿密に辿った貴重なドキュメントである。通読したわけではないが「寅さん」関係の書物は数多くある。中では豪華本(タイトルは失念した)に寄稿していた仏教哲学の研究で知られる中村元が「寅さん」を「放浪者」ないし「渡世人」として位置づけるのではなく、12世紀の南仏に出現したヨーロッパの恋愛吟遊詩人たち、トゥルバドゥール(宮廷風恋愛のベースとなった)と結びつけて論じていたテキストが、かつての私に「寅さんを見るあらたなパースペクティブ」をもたらせてくれた。そしてさわりを読めばすぐにわかることだが、『おかしな男 渥美清』(連載は1997年4月〜1999年12月/新潮社「波」)は、著者の準私小説的なテイストも織り交ぜてある、少しもおかしくはない大真面目な書物であり、(ともすれば映画屋、文化屋が失いがちな)事実主義に即する正確さ、客観性に貫かれた見事なリアリズムの綾なす良書中の良書である。さしあたり、最近出た(リリーフランキーなぞが加担している)寅次郎名台詞集なぞは、別様のコンセプトで作られているとはいえ、この書を前にして萎えきってしまうだろう(そもそも比較すべきではない対象だが)。・・・さて、寅さんこと渥美清、本名、田所康雄(たどころやすお)は1996年8月4日、転移性肺ガンのため東京都文京区の順天堂大学付属病院で息をひきとったのだから、死の寸前までの役者稼業を完遂した、といっても過言ではないだろう(ちなみに墓所は新宿区の源慶寺)。実際渥美清は中年期から「役者の理想的な死に方は野垂れ死に」と知人に語っていたらしいし、(もともと青年期に片肺を切除した)役者の最終作の現場が終わった後では、「あの体の状態で・・奇蹟的だ。」と担当医が漏らしていたという。・・・さて、この書でまず注目したいのは、<役者の身体=貨幣>という一見アモラルでありながら、どこまでもリアルな事実の記述である。それを十二分に体現していた渥美清演ずる「車寅次郎」の存在は、1969年から1995年の26年間、おおよそ<日本映画>に欠かせぬキャラクターとして君臨していた。(書の後半は、渥美清の身体が、邦画界、とりわけ松竹という会社においていかに<経済的に>重要なマテリアルだったかがさりげなくスケッチされている。)そして、渥美の死後、邦画が下降線をたどりはじめた1958年よりの興行収益の赤字にさらに輪をかけて邦画界は衰弱の一途をたどる。360ページより引用する。(原文最初のセンテンスには傍点)
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一人の役者の死が映画会社にこれほどの影響をあたえたのは最初で、おそらく最後だろう。新東宝、大映、日活(旧)の崩壊と系列館の変化を眺めてきたが、松竹の場合は、なにか違う。<壮烈>というような崩れ方である。
具体的にいえば、邦画三社の1998年(平成10年)の総配給収入は、
と発表されていた。
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そして、1999年に松竹大船撮影所が鎌倉女子大学に売却されるまで、死後3年しかかかっていない。・・・2004年8月4日にもこのウェブログで「寅さん」ついて若干のメモを記しておいたのだが、僕が『男はつらいよ』シリーズにおぼろげながら興味を持ち始めたのは、渥美清が昇天した直後からのことであった。なぜなら、世間で流布していた寅次郎の「人情(情愛)」や「日本的風景」に還元されるその映画群の説明的、かつ短絡的オピニオンに強力に異和を感じていたからであった。それらのオピニオンは僕にとって「言葉足らず」の何ものでもなかった。そして、ユリイカ臨時増刊「ヌーヴェル・バーグ30年」に採録されたフランソワ・トリュフォーの論文「フランス映画のある種の傾向」と同誌に所収されてある安井豊の「私ももうすぐ30歳」というヌーヴェル・バーグ論を読み、他でもないこの二つの論文に目を通して、なぜか『男はつらいよ』シリーズ、そのシリーズという形式特性をも含めて「ある種のアメリカ映画を礼賛したヌーヴェル・バーグ、その理論的なパラダイム」に関連づけていたのだった(この関連性についてはそう遠くはない日に論述してみたい・・・興味が断続的に10年以上浮き沈みし、今になって興味が最表面化しているわけだ)。周知の通り、『男はつらいよ』は強力にわかりやすい映画(ちなみに彼の追悼記事でイアン・ブルマが、ノーマン・ロックウェル(古きよきアメリカ絵画を描く画家)の絵の世界にソフトになったジェイムズ・ギャグニーがいる眺めを日本におきかえて「トラ・サン」を説明している)であり、それゆえに「国民映画」などと呼ばれた。だが「わかりやすい」ことを、なぜそれが「わかりやすい」のか考えだすと、かえって「わかりにくい」ものに変じてくる。・・・温故知新、古きを知って新しきを知る作業(内省ではなく反省)は「ポスト・クリティカル」な時代において、どのように発揮されるべきなのだろう。1968年のテレビ企画(現存するビデオは最初回と最終回のものだけらしい)から出発し、1969年の8月に産声を上げたこの歴史的名産、そのエッセンスは今や忘却の淵に追い込まれている、というよりもまだ、そのアポリアを誰も語っていない、誰にも語らせていないのではないだろうか、そんな気さえする。・・・それにしても「邦画バブル」「元気をとりもどした日本映画」などと喧伝されてどのくらいたつのだろう。数年前のことだが、日活の経理をやっている男(かつて京都でバーテンをしていた)は「バブル、と言っても儲けているのはフジテレビだけですよ」と言っていた。実際的には映画資本がそれ自体独立してあるのではなく、テレビ資本ともどもに相互溶解してしまい、なかでもフジだけが利益を独占しているといった偏差(格差)があるのだろう(こっちはほとんど<非ー商業>でやっているのだから関係ないといえばないのだが)。・・・ぼくはかつて映写技師をしていた。そのうちのひとつに大阪府下にある「高槻セントラル」があった。デイタイムは松竹・東宝のブロック・ブッキング・システムに即した形での上映、レイトショーは、支配人企画のなかなか凝ったプログラムを上映する映画館だった。あくまでも私見なのだが、実際入場者数が多かった邦画とは「男はつらいよ」と「ドラえもん」の二本だった。邦画を云々すること自体が崩壊寸前(あるいは楽天的なアナクロニズムの謳歌)にあると思われる昨今、『男はつらいよ』を基軸に多角的にディベイトを仕掛けることも一考(一興)なのではないか。
最後に、累計48作の最終作、『男はつらいよ 寅次郎紅の花』のラストで「阪神大震災の現場に寅次郎が現れ、被災者を見舞う」というシーンがある。神戸で震災があったのは、1995年の1月19日、そして最終作は同年の12月に封切りされた。時代の要請とはいえ、1995年とはさまざまな意味で断絶をもたらした年だった。・・・19歳の時に見た二本立て『勝手にしやがれ』と『右側に気をつけろ』(後者の方が確実に面白いと思った)を上映していた三越劇場も、震災のために潰れてしまった。まだシネコンがなかった時代である。(2009-9-30)