マーチ






mixi内にぼくのファン・サイトらしきものを知らぬ間に勝手に作った知人でもあり、友人でもある女性が武蔵野の精神病院に入院しているのでお見舞いに行こうとしたら、別の知人から急に「会ってくれー。」という電話。やむなく恵比寿まで。やや「めんどくさいなー」と思いつつ、向かう。べつになんてことはないと思う。知人は約1年前上京してきたのだが、話相手もなく、自己対話(モノローグ)を繰り返しているうちに発狂しそうになったという。けど、その気持ちはよく分かる。ぼくも上京して1年くらいは発狂とまではいかないまでも、発話量の激減にともなう胸のむかむか感と混成した頭と心が割れそうな感じがよくしたものだ。「頼むから晩飯つきあってくれ」と数少ない知人に電話したものだった。(でも、一人でカラオケ行ってでかい声出すのがいちばん手っ取りばやいですよ、カネもかからんし)。知人はトーキョーを敵視しかけているが、都市は悪い場所でもないし、日本も悪い場所ではない。というかそもそも善悪の問題ではない(トーキョーの局所はたしかに遠心力が働きすぎている。遠心力に対する慣れを獲得しようとするなら、人々の渦巻きに突入しては外に放り出される、この反復訓練によって慣れを身体に刷り込ませてゆくしかないと思われる。もちろん観念的にではなく物理的に)。だが、ぼくでも、ディスコミュニケーションが興じて、ココロの底から絶望的になるときは今でもある。そして、ほんとうに耐え難いことなのかもしれないが、その絶望をよりよく回収してくれるのはこの都市であるし、日本でもあることも否定できないのだ。それらには使用価値がある、というか残されている。想像的な対象に疎外論的に殺意をもったとしても、それまでであって、それこそ日本的政治の思う壺だろうよ。・・・(われわれ、と言っちゃうけど)、われわれは、甘える事は許されないし、予断は許されないから、甘えや予断に厳しく生きるしかない。そんなに落ち込むなよー。