夢見キーパンチ





「偉大な芸術家ほど、規則というものを重視する。例えば、毎日20時になると、机に向かって、一枚の紙とペンを用意して、書く。画家なら、デッサンをしてもよいし、音楽家なら作曲をしてもよい・・・これを繰り返すことによって、毎日の変化がより明瞭になり、物質化と可視化を媒介することによって、時間とともに(時間によって)区切られた身体をその都度再開発しやすくなる。」・・・というようなことをN君が言っていて、なるほどな、と思い、ためしに先週は毎晩書き、ここにアップロードした。



なるほど、規則性を意識しながらやると、毎日の変化(昨日はああだったけど、今日はこうだった)に気づきやすくなる。書く内容はなんでもよく直感だけで選んでいたが、近過去との連続性がたしかめられ、それは「毎日」が「毎日つづく」ということになるのだろう。




わかったのは、書けるということで、そもそも簡単にできることをわざわざする必要があるのか、という
疑問が反照射され、しかし、できることだからこそ、毎日やったほうがいい、という再疑問も起こり、どうしていいのやら見当がつかない。毎朝、顔を洗い、歯磨きし、というレベルまでもっていけたら、書くという作業がもっともっと透明なものになるだろうか。




書くために毎日をつづけているわけではないが、なるべく細かく書き記しておくことによって、過去感が希薄になってくることが面白い。過去をどんどんと現在にたぐりよせることによって未来もそれに比例する。現在が山の頂点になることによってどちらの方向も見渡せることになる。頂点への行き過ぎによって過去も未来も遠すぎて見えなくなる。




指先に刺激をあたえる運動が好きなのか、ピアノを弾くか、キーをパンチしているかの時間が多い。こういう動作だけで映画を作ることができたらという夢見もないわけではない。